「過去の記憶、思い出したんだ・・・俺」






全身がずぶ濡れのまま、俺は靴を脱いで玄関から部屋に上がる。

素足を下ろすとピシャリと水の音がした。雨に濡れた足から床へと、水が滴り広がる。




白い前髪を伝った雨水が、まるで涙でも流しているかのように俺の頬を濡らす。

身体は芯まで冷え切っているが、身体よりも心の方がよっぽど冷たい。だから寒さは感じない。


「随分濡れたな・・・今日は特に酷い雨だった」


土方は俺を哀れむように目を細める。

ゆっくりとした動作で棚から柔らかなタオルを取り出し、俺へ差し出す。
俺が無断で外出したこと、そして記憶を取り戻したことを、何とも思っていないかのようだ。

今の俺の言動を無視する土方は、まるで俺を否定しているかのように感じられた。

本来ならもっと動揺するはずの土方は平然としており、むしろ普段よりも優しげだ。


「ほら銀時、一人で外出しちゃだめだろう?」


タオルを手に、穏やかに語りかけるその口調に違和感を覚え、気分が悪くなる。
俺の知っている土方という男は、俺に対してこのような口の利き方などしない。

(土方は、こんな奴じゃない・・・)

思わず眉を顰め、土方を睨んだ。




目の前の土方は同じ大学に通う1年下の学生。
俺にとってはただの喧嘩友達だ。
顔を合わせるたびに口喧嘩をして、酒の量を飲み比べして、勝った負けたと一喜一憂する。
ただそれだけの存在だ。

ただそれだけの男は、それなりに俺にとって大切な奴ではあるのだが、親密と言えるほど馴れ合う気はない。
過去に一度求められたが、俺はそれをどうしても受け入れられずに、拒んだ。奴を振ったのだ。
土方と一線を越えるような仲になんか、なりたくない。

そしてこんな奴に哀れみを受け、庇護されるなんて冗談じゃない。
土方が俺を匿うだなんて間違っている。記憶の無い俺を学校や警察にでも、突き出せば良かったんだ。
面倒を見てくれなんて頼んじゃいない。嘘を吐いてまで、俺を手に入れようとした土方の魂胆に反吐が出る。

(・・・許せない。卑怯な奴。)


しかし俺の中の、もう一人の俺はそうは言わなかった。


理由はどうであれ、彼が心身ともに支え助けてくれたおかげで、僕は生きてる。
今この命があるのは彼のおかげ、そしてこれからも僕は土方くんの側を離れたくない。
記憶を取り戻し怪我も治った僕は自由に暮らせるだろう。それでも僕には彼がいないとダメなんだ。
僕は彼を愛しているから。

不安で気が狂いそうだった真夜中に、僕を強く抱きしめてくれた彼のぬくもりを忘れたのか?
僕の我侭を全部受け止め、時間とお金と気持ちの全てを僕のためだけに使ってくれた、土方くんの愛情は嘘なんかじゃない。
愛しげに見つめてくれた優しい瞳。この世界でたったひとり僕を望んでくれた。
今朝一人ぼっちで大学にいた時には、あんなにも会いたかったのに。
すぐにでもこの戸惑いを捨てて、素直に彼の胸に飛び込んでしまえばいい。
きっと土方くんは、いつもと変わらずに僕を受け止めてくれるだろう。
彼のために生きたい、全てを捧げたいと、僕は自分でそう願ったんだ。それの何がいけない?

(好きなんだ。一緒に居たい・・・)



愛憎、相反する気持ちが同時に湧き上がり、俺は戸惑う。


他の誰でもなく、どちらの感情も俺の内側から生まれたものだ。

憎む気持ちと求める気持ちが交差する。どちらの想いも強い。簡単には否定できない。
だからと言って、両方の気持ちを認めるわけにはいかない。心が二つに引き裂かれてしまいそうだ。
矛盾が胸の奥渦巻き、納得がいかず、迷い、苛々とする。
鼓動ばかりが、やけに早い。動いてもいないのに、呼吸が乱れる。

自分で自分の感情が理解できず、吐き気がするほどにおぞましかった。
憎むことも愛することも、どちらも出来ない。
視界が揺れる。頭が割れるように痛い。叫びたいのに声が出ない。切羽詰まって、発狂しそうだ。

俺の内側は土方という存在で一杯になって、心が壊れてしまいかねない。
自分の気持ちが、理解できない苦しみ。俺は一体、どうしたいんだ?
もう、溢れてしまいそうだ。


(俺は自分が分からない・・・)


一度ギュッと目を瞑り、忌々しい光を閉ざす。
視界を遮った闇に包まれて、鼓動が落ち着きを取り戻すのを待った。
大きく深呼吸をして、迷いをかき消すように、瞳をゆっくりと大きく見開く。



開けた視界の目の前に、差し出されたタオルがあった。

それを強く睨みつけ、腕を振り上げる。

そしてその腕を力一杯振り下ろし、差し出す土方の掌ごとタオルを床へと激しく叩き落とす。



「ふざけんな!土方テメー、どういうつもりだァァ!!!」



腕を振り下ろした勢いのまま、土方を睨みつけ腹の底から怒鳴る。
大声を出した事をきっかけに益々感情が昂ぶってくる。


必要以上に強い態度で、わざと荒々しく振る舞う。
こうして甘えたがっている方の俺という存在を消してしまいたいと思った。

どう考えても、これ以上土方を愛することなんか出来ないからだ。
俺は土方のことを許せない、許したくない。

憎む気持ちの方を、俺は選択したのだ。


「なんとか言えよ!今まで俺を騙してやがったのか!」


逆上する俺を、土方は静かに黙って傍観している。
否定も肯定もせず、その変わることのない表情が、俺の神経を逆撫でする。

かっとなった弾みで、思わず手が出ていた。
気付いたら俺の両腕が土方の襟首を掴み、きつく締め上げていた。

肩で息をしながら土方の顔を睨みつけるが、堪えている様子はなく、やはり無表情に俺を見つめ返す。

土方の真っ直ぐな視線が、何故か痛い。

(どうして・・・一体何を考えているんだ?)

俺は土方の胸を突き飛ばすように乱暴に手を離す。

土方は2、3歩後ろに引いたが、平然としていた。それすらも気に入らない。


(何故言い訳をしない?)


俺に嘘をついて、俺を騙して、俺を閉じ込めて、まるで玩具のように弄んでいたくせに。
真実を隠蔽した上、学校や友人と連絡のつかないように小細工して、計画的に俺を手に入れようとした。
俺を人間扱いしていない、これじゃまるで拾ってきた動物だ。
そんなふざけた仕打ちを、許せるわけは無い。
何故そんな犯罪まがいの事が出来たのか。
元々俺を好きだからか。それとも振られた腹いせなのか。どちらにしろ、卑怯だろう。


じっと無言でいる土方の思考が読み取れず、俺はきつく睨む事しか出来ずにいた。

土方が黙っている反動で必要以上に疑心暗鬼になり、どろどろとした負の感情が俺の胸に渦巻く。

大学からこの家へと戻ってきた時には、気持ちの整理はついていないが、まだ冷静だった。
身体も心も冷え切っており、ただ呆然として、土方と対峙していた。

今は俺ばかりが熱くなり、気持ちが空回りしている。
俺の苦しみが土方には通じていないかと思うと、怒ることにすら空しさを覚える。
お前のせいで気が狂いそうになっているのに。
土方が憎らしい。

汚らしい負の感情に押しつぶされてしまいそうだ。
こうなってしまったら、もう、自分で気持ちのコントロールなんか出来ない。
まるで怒涛の如く溢れる感情に流されるように、俺は自分を見失った。



目の前の土方には、俺の気持ちなんか理解出来ないだろう。
そして俺にも、土方の気持ちなんか理解出来ない。
どうしたらいいのか、先が見えない。


「土方・・・お前、何考えてんだよ・・・」


・・・苦しんでいるのは俺ばかりなのか。


土方のつれない態度に怒り、焦れて、息が詰まってしまいそうだ。

浅い呼吸を短く繰り返すうちに胸が熱くなり、苦しさのあまり涙がじわりと目頭に滲む。

涙が零れそうになったが、俺は人前で泣いたことはない。泣いたっていい事なんかひとつもない。
ましてや土方の前で弱みを見せるような真似はしたくない。

絶対に泣いてたまるかと、奥歯をかみ締めて涙を堪える。


記憶を失っていた時はボロボロと涙を零したが、あれは思い出したくもない失態だ。
俺は、本当の俺は、土方の前で泣いたりなんかしない。



「何か、言えよ・・・」



俺は額が痛くなるほど険しい表情のまま、しかし途切れそうな弱々しい声を絞り出す。
涙を堪えているせいで、喉の内側が焼け付くように熱くなっていた。
それでも一粒だって涙を零すまいと、目を細めて耐えた。


静かな部屋。
雨の音が聞こえる。


土方は何も答えてはくれない。
まるで完全に拒まれているような、絶望にも似た悲しさを味わう。
目の前にいるのに、内側にまで受け入れたこともあるのに、今では遠い存在。
俺の声は届かない。



土方にとっての俺は何なんだ。

この期に及んで無視をされるなんて、これほど空しいことはない。

土方の中には、もう俺は居なくなってしまったのだろうか。




怒りから悲しみへと感情がうつり変わり、熱かった身体がまた冷えてくる。
雨に濡れた身体が芯から冷えて、凍えるように寒いということに、今やっと気が付いた。




俺は脱力し、床へ崩れ落ちるかのように両膝をつく。




寒さに震え声も無く項を垂れる。




今こそ俺は、何もかも全てを失ってしまったように感じていた。






*** ***






本当に、幸せだったんだ。


記憶喪失になった時には、記憶の代わりに愛しい人を得ることが出来た。
今が最高で、失った記憶なんか要らないと本気で思ってしまうほど、毎日が幸せだったんだ。

『土方くん』のことを想うだけで心が浮かれ、笑みが零れ、身体は熱く火照る。
愛する幸せ、そして愛される幸せ。
何度「好きだ」と告げても足りないと思った。

その愛しい人が俺を裏切るなんて思いもせず、心の底から信じていた。

しかし記憶が戻った今、愛しい『土方くん』は俺に嘘をついていたのだと知る。
これが裏切りでなくて何なのだろう。

甘く優しい日々の象徴だった『土方くん』は俺の中から消えて居なくなってしまった。
もう会えない。愛していた土方くんはもう居ない。
あんなに好きだったのに。泡のようにパチンと弾けて、あっけなく消えてしまったんだ。

俺は記憶を取り戻すことと引き換えに、愛しい人を失ってしまった。

あの満ち足りた日々は、何もかもが嘘だったんだ。
幸せだったのに。こんな事になるのなら、いっそ知りたくなかった。
喪失感で胸に風穴が開いたような寂しさを覚える。

寂しい、会いたい、と胸の奥深くに封じられた過去の『僕』が泣いている。

(ずっと愛し続けていたかった、それなのに・・・)

幸せな思い出の全てを覆えされ、足元がガラガラと崩れていくようだ。



そして記憶の戻った今、俺の目の前にいるこの男は、喧嘩友達の『土方』だった。

こいつとは気が合っていて一緒にいるのが楽しい。親友と呼べる日だって、そう遠くないと思っていた。
自分の信念を持ち、いつでも本気で真っ直ぐな瞳をした、強い男。
俺とよく似た魂を持っている。
友達の『土方』だって俺を裏切ったりはしないと、心の底から信じていたんだ。
黙って背中を預けられる男だ、そう信じていたのに。



友達としての『土方』も、恋人としての『土方くん』も、両方一度に失ってしまった。


二人いっぺんに消えてしまうなんて、残酷だ。どちらの土方も好きだった。
どちらか一人くらい、残っていてほしかった。本心はそう思っている。

記憶と引き換えだから仕方がないのかも知れない。
しかし土方が嘘をつかなければ、友達としてまだ繋がっていられたと思うと、悔しい。
土方にとってただの友達としての俺なんかに価値はないと判断した、その結果が今なのだろうか。

信じていたのに、嘘を吐かれて裏切られた。
切なくてやるせない。許せないんだ。どうしても。


今こそ俺は、本当に全てを失ってしまったんだ。記憶よりも大きなものを。この気持ちを。


弄ばれ騙された事を悔しく思いながらも、それを上回る空しさで、俺の気持ちは真っ暗になる。

(俺にとっての土方は、かけがえのない存在だったのか)

そう気付いた。

出来ることなら、今、声をあげて泣きたい。







「土方、一体どうして、こんな真似をしたんだよ・・・」

俺は再び、問い掛ける。
雨音が遠く聞こえる静かで冷たい室内に、俺の声がやけに大きく響いた。
俺の声もこの部屋の空気も、全てが重く沈み、冷え切っている。


「どうしてか、分かるだろう?」


ずっと黙っていた土方が返事をした。
また無視されるのだろうと諦めかけていた俺は、土方の声に驚いて顔を上げる。

脱力して膝をついた俺の目の前に、一歩近づいた土方が立つ。


「お前のことが、好きだからだ」


土方が下を向き、俺は上を見上げる。冷めた視線が絡まる。


「・・・お前の気持ちは知ってる。でも本気で俺の事を想うのなら、真実を教えるべきだろ?」


土方に見下ろされている姿勢が嫌で、俺は再び立ち上がり、土方と向かい合う。
立ち上がると軽い貧血で眩暈がした。
ふらりとよろけるが、両足に力をいれて耐え、倒れずに済んだ。

食事もろくに摂らず、ずっと寝てばかりいる生活の俺は、体力も落ちている。
今日のように一日中動き回り、長く会話をすることなど久しぶりだ。
俺はもう、心身共に、限界が近い状態だった。

多分真っ青な顔色をしているであろう俺を気遣って、土方が心配そうに手を差し出す。
しかし俺は反射的にその手を払った。
土方が諦めたように、小さく溜息をつく。

「勿論そのつもりだった。しかしお前は俺に依存した・・・俺にだけすがり、外の世界を見なかった。
 お前は自分の意志で、この部屋に留まっていたんだろ?」

土方は表情を変えることなく淡々と、そう言った。
あまりにも感情のない声に、俺は愕然とした。
当然のことをしたまでだ、まるでそう言われているかのように感じた。

「俺の意志でここに?まさか!ホットミルクに変な薬を混ぜて、逃げられないように画策したくせに!」

「それも、お前が自ら欲しがっていたじゃねえか。眠くなると知りながらあれを欲しいと毎晩のようにねだったのは誰だ?」

「だって・・・お前が無理やり・・・ッ」


俺は言葉を詰まらせた。

本当に無理やりだったのだろうか?

飲めと薦められたことはあったが、しかしいつでも、俺は自分の手であのマグカップに口を付けた。

飲みたかったんだ。それは俺の意志だ。



・・・それは、何故?


確かに土方の言うとおりかもしれない。


俺はここに居たいと思い、わざと出ていかなかった。
眠っていれば愛してもらえると思って、あの怪しげな飲み物を自ら求めていた。


俺は自分の意志で、ここに留まっていた・・・。
そんなことは、あっちゃいけない。自分の意志だったなんておかしい。信じたくない。


でも、本当に、自分の意志だったとしたら。
土方に愛されたい一心だったのだとしたら・・・?


戸惑いのあまり、身体に小さく震えが走った。
そんな感情は想像だってしたくない。


「でも・・・でも、最初に嘘を吐いたのはお前だ、土方」

「お前こそ嘘を吐いてる。記憶は失ったんじゃない、自ら記憶を封印していたんだ、お前は」

「ど・・・どうしてそんな事が言えるんだよ」

「さあな。俺の事を好きだからじゃねえのか・・・俺にはそう見えたが?」


土方がニヤリと口の端を吊り上げて笑う。しかしその青い瞳は笑ってなどいなかった。
唇だけの冷たい笑みで俺をまっすぐに見つめていた。


ぞくりと鳥肌が立つ。


土方の発言の意味が分からない。理解できない、それなのに俺の胸に激震が走った。

バカな事を言っていやがる。そう真っ向から否定してしまいたかったが、何故か躊躇し、反論出来ずにいた。

声を失い、沈黙する。俺の視線は宙を彷徨う。



俺は明らかに、動揺していた。



何故なら、心当たりが無いというわけではなかったからだ。

自分でも気付かなかった真実を指摘されてしまったようで、衝撃のあまり眩暈がした。




「まさか、そんなわけない・・・!俺はお前の告白を蹴っただろうが!一体何を聞いてやがった?」


眩暈に倒れないように両足に力を込め、土方を強く睨みつける。
惑わされてはいけない、負けてはいけない、そう気を張って必死に冷静になろうとした。


「・・・それだ、銀時。俺とは付き合えないと言って逃げたお前の態度が、どうしても理解できなかった」


土方が言うのは、事故に遭う直前の時。居酒屋からの帰り道、土方の告白に返事を出し、振った時の話だ。
俺はひとつひとつ、あの日の出来事を振り返る。

大学の校庭を彩る桜の花と、居酒屋で呑んだ味のしない酒、そして土方に抱きしめられた瞬間に見た夜空が、脳裏に浮かぶ。


「あの時の銀時は明らかに変だった。感情的になるなんてお前らしくない。逃げる必要もねえし」

「明らかに変だった・・・か?」

「そう、だから俺は何度もあの時の事を思い返した。そして記憶を失ったお前は、過剰な程に俺を愛した」

「・・・それで本当は、最初からお前を好きだったんじゃないのかと思ったってわけか」


土方は静かに頷く。無表情だが、確信に満ちた真っ直ぐな視線を返してくる。
無茶な事だが信じたとおりに実行するあたりが、根が真面目な土方らしい。
不器用そうに見えて要領のいい奴だから、こうして上手く出来てしまったのだろう。
こんな奴だから、無防備に信じてしまったんだろうな。

俺も悪いんだな。思わず、苦笑いをする。

土方はいつでも真っ直ぐな奴だった。
あいつはただ、土方に異常なほど依存していた俺の想いに応えようと、必死だっただけなのかもしれない。
土方さえ居てくれれば、外の世界には出たくない。もう記憶なんかいらない。ずっと側にいたい。
記憶を失っていた時の俺は、常にそう懇願していたじゃないか。

土方は卑怯な手を使ったけれど、俺への想いは嘘ではなかったということだ。


「バカだな、土方」


俺もバカだけど。


声には出さずに心の中で、自嘲した。






*** ***






俺は何故、土方の告白を頑なに拒みながらも、その理由を伏せていたのか。

逃げ出したいほどに、どうして苦しんでいたのだろう。

見失ってしまった本当の気持ちを、俺は探していた。





土方の告白は俺にとって衝撃的な事件だった。
告白されたその夜から次に会う新学期まで、延々とその事ばかりを悩んでいた。


(どうして悩むんだ?)


”土方とは付き合えない”という俺の結論は早々に--- 告白された瞬間にもう決まっていた。

決まっているのだから悩む事などないはずなのに、躊躇い続けていた。
あいつを振る事が、辛かった、ただそれだけだ。

しかし、どうしてそんなに辛いんだ、仕方のないことだろう?

土方を傷付ける事が辛いのか?あいつだって、覚悟は決めていたはずだ。


そうじゃない。辛くて苦しい思いは、土方を心配しての事ではない。


(もしかして俺自身の気持ちが揺れていたのか・・・?)


思い至った可能性に驚き、思わず息を飲む。



瞳を閉じて、過去の記憶を丁寧に探る。

記憶の奥底に自分自身で隠した秘密がある気がした。
悩んでいた自分の気持ちをゆっくりと思い出す。


じわりと滲み出すかのように、あの時の想いが浮かび上がり、おぼろげな記憶が縁取られる。


次第に具体的な気持ちが読み取れるほどに、自分の感情が蘇ってくる。


それはどんな感情だったのだろう。



戸惑い。驚愕。

嬉しくて仕方のない気持ちの昂ぶり。

悲しくて沈むような倦怠感。

困り、焦り、追い詰められる苦しみ。

逃げ出したい、投げ捨てたい自暴自棄な感情。

身を切るような痛み。

空しい喪失感と、後悔の念。



そこには、俺の我侭が転がっていた。



ひとつではなく、たくさんの想い。



ここから俺自身が導き出した結論が、あいつを拒否することだった。



こんなにも自分勝手で、我侭な気持ちで、あいつを受け入れてやらなかった。



それを上手く説明できずに、それどころか自分でもはっきりとした理由もわからずに、とにかく拒否をした。

真っ直ぐな土方の想いから逃げたくて、俺は言葉を濁してしまった。

どうしてそこまでして、拒否したんだろう。






ゆっくりと瞳を開けると、目の前には土方が立っている。
先ほど変わらない土方のアパート。うす暗い部屋。聞こえるのは雨の音だけだ。

俺の身体は雨でびしょ濡れで、小さく震えていた。

脳裏に浮かぶのは、土方の告白を受け止め、悩んでいた時の自分の気持ち。
ぐちゃぐちゃと感情の糸が絡まって、その糸はついに自分自身の身体にまで巻きついてくる。
自分の感情に迷い、身動きが取れなくなっていた。


そんな状態の俺が、思い至った結論はこれだけだった。


「土方と付き合ったら・・・そういう関係になったらマズいと思ったんだ、俺・・・」


宙を見つめながら、うっすらと思い出してきた気持ちを見失わないよう、注意深く辿る。
呟いた俺の声は小さかったが、静かな部屋の中でははっきりと響き渡った。


「・・・何がマズいんだ?」


土方が怪訝そうに眉を顰めた。
同じく、小声で聞き返してくる。


「俺は・・・きっとお前に・・・溺れちまうから」


胸に浮かんだ言葉を、ぽろりと零す。
自分の口でそう言ってから、その言葉が半ば信じられずに驚いて目を見張った。

何か言葉を間違えたのではないかと、自分を疑う。


(土方に溺れる?)


どういう事だろう。


何故・・・いや、やはりという思いが強いかも知れない。


言葉を、感情を、間違えたわけではない。本当にそう思ったんだ。


俺は胸の奥底に隠してあった、禁断の想いをついに自覚してしまった。



(そうだ、俺は土方が好きだった。土方に嵌ってしまいそうな危機感があったんだ・・・)



こんな感情は、自覚したくなかった。知りたくもなかった。
・・・だからこそ、俺はこの気持ちを胸の奥深くに隠してしまったんだ。


似た者同士、俺たちはきっとお互いしか見えなくなるのが分かっていた。


当時だって既にじゅうぶん過ぎるほど、無意識のうちに土方のことばかり気にしていた。
土方がもしそれを許すと言うのなら、俺はどこまでも我侭を土方にぶつけてしまうだろう。
きっと俺の我侭を、土方は受け止めてくれる。そんな俺はあいつの重荷でしかない。

いつか俺のせいで土方をダメにしてしまうだろう。

俺には自分を抑える自信がなかった。

現に記憶喪失の間、俺は土方の優しさに甘える振りをして、土方が何処にもいかないよう束縛していたじゃないか。
土方だって同じことを俺にした。周囲から囲って俺を自分のものにしようとした。


お互い様だ。二人で束縛し合っていた。

俺たちは他の何からも視界を奪われ、夢中になり、ただ味わうことしか考えなかった。

こんな二人が長く続くわけはない。行く末は見えている。


当時の俺がそこまで予想できていたわけではないだろうが、案の定そうなってしまった。
本能的な危機感だったのかもしれない。


だから付き合ったりなんかしないほうがいい・・・そう思い必死になって、俺は土方を振った。



過去の自分が悩み苦しんだ理由を、やっと知ることが出来た。
自分から好きな人を遠ざけるのは悲しく、痛く、苦しいだろう。
でもそれがお互いの為だと、信じて疑わなかった。


奇しくも直後の交通事故で、俺は記憶を失った。

理性で自分を制御する意志が無くなった俺は、欲望のままに振る舞った。
迎えてくれた土方に、本気で溺れてしまった。

その甘い時間はあまりに心地よく、この幸せを奪われたくないと願うあまり、俺は無意識に記憶を封じた。

本当の俺は、心のどこかで真実を全て知っていたはずだ。
それを胸の奥底に仕舞い込み、気付かない振りをしていただけ。

卑怯なのは俺も同じだ。
俺が毅然と土方を拒んでいれば、こんな事にはならなかったんだ。


(・・・土方を振ったくせに、諦められなかった。ずるいのは俺の方だ。)



素直な気持ちで土方を抱きしめる俺の心は満たされていて、他に何も要らないとさえ思った。

土方に騙されていたなんて嘘だ。あの気持ちは本物の俺が作り出したもの。



俺の望んだ世界だろう。居心地が良いのは当たり前だ。




自分で作り上げた世界を、自分の手で壊した。ただそれだけのこと。







*** ***







「お前の記憶が戻ったら俺はもう用済みだと、そんな話したよな?」



土方は俺から視線を外し、少し俯く。
まるで自嘲するかのように冷たく笑う。声に悲しい色が見える。


確かに以前、土方が自らそう俺に言ったことがあった。

とても辛い一言だったから、よく覚えている。
それから俺は、記憶なんか要らないと思うようになったのだから。

その時の俺は何故土方がそんな悲しい事を言うのか、真意を理解していなかった。


今ならその言葉の意味が分かる。


俺の記憶が戻ったら数々の嘘と裏切りに絶望して、いつか俺たちは決定的に決別する・・・
土方はそう言いたかったのだろう。
あの夜、土方が切なく苦しそうに俺を抱く姿を思い出し、胸を締め付けられるような思いがした。
ずっと前から土方は、今日という日を怖れながら過ごしてきたのか。


「そして土方・・・お前はその後、”どこにも行かないでくれ”と俺に頼んだ」

「ああ、言ったな、本当にそう思ったんだ」


自分の物にならない仮の恋人を、半ば強引に閉じ込めておくという気持ちは、一体どんなものだろう。
必死だったんだろう。最後まで愛したいと切実に思ってくれていた筈だ。


そんな仮そめの関係は、どんなに愛し愛されても、空しかったんじゃないだろうか。



嘘をついて真実を隠しても仕方がないのはよく分かっている。
それでもほんのわずかでも共に居たいという想い。すがる俺を手放したくないという想い。
嘘でもいいから欲しい愛情。
いつしか次第に別れが恐くなり、俺の周りをより多くの嘘で塗り固め、俺の逃げ道を塞いだ。
そして積み重ねた嘘で、今日に至る。


目の前の土方は、俺との別れを覚悟している。全てを諦めたような覇気の無い顔だ。


何を言っても平然として、俺ばかりが感情を昂ぶらせ、空回りしていたのはそのせいだ。
なぜなら土方はもう、全てを諦めてしまったからだ。


それでも今だに俺を愛しそうに見つめる瞳が、癪に障る。

その視線が、気になって仕方がないんだ。



悔しいけれど、俺は土方を憎むことは出来ない。


それどころか今でも熱い気持ちはこの胸にあると、はっきりと認識してしまった。



「土方、もう一度、言ってくれよ」


「何を?」


「どこにも行くなって」


「銀時・・・」



今でも俺は土方を許せない、俺に嘘をついた事を怒っている。
しかし一方では愛しくて仕方がない。
土方が俺のことを愛してくれたのは、嘘ではなかったのだから。



自分の理性はこれ以上はいけないと言い、本能はもっと近づきたいと求めている。

(俺はどうしたらいいんだ・・・?)

もうすでに俺の内面の全てを見てきた土方だ。
意地を張って隠し事をしても仕方がないという、諦めに似た気持ちが湧く。




俺はしたいと思うままに、素直に手を伸ばして土方に触れてみる。




そっと土方の肩を手で掴み、一歩近づく。

土方が俺の脇から背中に手を伸ばして、俺の身体を自らの胸の中へと強く引き寄せた。


その勢いで、よろめくように土方へと体重を預ける。


俺は土方の腕に抱きしめられた。


背中に回された腕が、より強く俺を求めてくる。

殆ど同じくらいの身長のため、俺が俯くだけで土方の肩に顔を埋めることができた。



体重を預け顔を埋めて、土方の背に腕を回す。二人で強く抱きしめ合った。




(どうしようもなく・・・悔しい・・・)



土方の肩に顔を埋めたまま、俺は眉間にしわを寄せて不機嫌な表情をした。
一度は振った相手で、さらに俺を騙した相手、それなのに触れ合うと蕩けそうに嬉しい。


(まだこんなに好きだなんて、悔しい・・・)


本当に許せないのは、土方ではなく、こんな自分だった。
揺れてばかりの、はっきりとしない自分。



「一瞬だけでもお前が俺のものになるなら、後はどうなっても構わねえと思った。
 本当に一瞬だけ手に入ったら、今度は永遠に逃がしたくないと思った・・・厄介だな」



耳元で切なそうに囁く土方の小さな声。


俺を匿っている間は愛情と欲望との罪悪感に板ばさみになって、もがき苦しんでいたはずだ。


後戻りの出来ない状況で、ただ俺だけを見ていた日々は、一体どんな気持ちだったのだろう。


「バカだな」


俺が笑うと土方も微笑した。




「なあ銀時、どこにも行かないでくれ」




「・・・仕方ねえな」






冷えていた身体は、もう寒くない。二人の熱が交わる。








*** *** 






「銀さん!今日は大学に来てたんですか」

昼休み、学生でごった返す銀魂大学の学食で俺が飯を食っていると、新八が明るい声で寄ってきた。
口一杯に飯を頬張ってる俺は返事が出来ず、「ん」と片手を上げて挨拶した。

昼食のトレイを持って俺の隣に座った新八がふと視線を上げると、そこにいた人物に気付いて驚いていた。

「あれっ・・・土方さんじゃないですか?えっと・・・二人で一緒に、食事ですか?」

新八が戸惑うのも無理はない。
俺と土方は一緒に飯を食うような仲ではないからだ。

だがしかし、それは以前の俺たちの話だ。
新八は現状を知らない。

「なんだ、悪いか」

土方がぶすっとした表情で新八を見る。
気分を害したと判断した新八が慌てて「すみません」と謝っていた。
しかし土方の愛想が悪いのはいつもの事で、特に怒っているというわけではない。
目の前にいる男の、こんな些細な表情の違いも分かるようになってしまった自分が可笑しくて、俺はクスクスと笑った。

「銀さん、何笑ってんですか」

自分が笑われたと思った新八が、じろりと俺を睨む。

「いや、べつに。・・・ね、土方、俺アイス食べたーい」

新八の抗議を軽く流して、俺は土方にデザートをねだる。

「アイスだぁ?もう歩けるんだから、テメーで買えよ・・・ったく!」

土方はそう突き放すが、言葉とは裏腹に財布を持って立ち上がる。
その様子を見た新八が「へえェ・・・?」と拍子抜けして裏返ったおかしな声を出した。

「どうしたんですか、土方さんをパシリに使うなんて、何があったんですか!」

「いーの、いーの!後払いなんだから」

「後払いって何を?アイス代を?誰に?土方さんに?どうしてですか!」

ちょっと新八をからかいたかっただけ、なんて言ったら土方にも新八にも怒られそうだ。
俺が言葉を濁しているうちに土方がアイスを二つ持って帰ってきた。
いちごミルク味のアイスは俺に、もう一つはソーダ味だろうか、それを新八に手渡す。

「ぼ、僕にもですか?土方さん、一体どうしたんですか!」

「どうした・・・って驚き過ぎだろ。いいだろ別に。いらねえんなら返せよ」

今まで万事屋メンバーとは仲良く無かった土方が、俺のこともあって、少しは歩み寄ろうとしているらしい。
そんな土方を俺は可愛く思った。新八とも仲良くやってくれりゃいい。

神楽と土方が打ち解けるには、相当に時間がかかりそうだが・・・新八も神楽も俺にとって家族みたいなものだ。

万事屋を、新八や神楽を大切に思う俺の気持ちを、土方も分かってくれているんだろう。
俺にとっても嬉しい心遣いだった。
そんな土方に惚れ直してしまったなんて恥ずかしいことは、そっと俺の胸にだけ仕舞っておく。

「もらっとけよ、新八」

「あ、はい・・・じゃあ」

アイスを舐める俺を、煙草に火を点けた土方が舐めるように見ている。
そんな様子を怪訝そうに新八が見ている。

3人とも無言になってしまい、変な緊張感がうまれる。


この妙な空気どうしようかな、そう思った矢先に、食堂へ神楽がやってきた。

「銀ちゃん!もう学校来られるアルか!」

俺の元へ走り寄ってきたはいいが、土方の姿を目にするとあからさまに嫌そうな顔をする。

「何アルー、こいつまだ銀ちゃんに付きまとってるアルかー!どっか行けヨー!」

「まあまあ神楽ちゃん、本人を目の前にして言い過ぎでしょ」

すっかりアイス1本で買収された新八が土方の味方につき、神楽をたしなめる。

「で、銀ちゃん、もう学校に復活アルか?」

「いや、もう夏休みだし。単位足りねーから、俺・・・来年もう一回、4年生するよ」

学校側には事故のことを告げてある。
後期から講義に出ることは出来るが、卒論の準備も間に合わない。
何より今まで講義をサボってばかりいた所為で、決定的に単位が足りないから、どうしたって卒業はさせてもらえないのだ。
俺は潔く、1年留年することにしていた。

「じゃあまだまだ、今年も来年も、万事屋の活動が出来ますね!」

「キャッホォウ!銀ちゃん、もう1年、来年も一緒ネ!」

「おいおい、お前ら、うるせーよ」

新八と神楽が派手に喜んでくれる。
突然騒ぎ出した二人に困った顔をしながらも、俺は内心とても嬉しかった。

ここにも、俺の居場所がちゃんとある。
かけがえのない場所だ。

そんなお祭り騒ぎな俺たちを、向かいの席で黙って見ている土方に、俺は少し顔を近づけ小声で囁いた。


「俺たち来年は同級生だから、一緒に卒業式しよーな?」


からかうつもりで、「一年間ヨロシク」と土方に軽くウインクをする。

それは今まで咥え煙草でじっと黙っていた土方の、何やら変なスイッチを入れてしまったようだ。
俺が近づけた顔を両手で抑えられ、痛いほどの力で無理やり顎を持ち上げられる。

「ええっ、ちょ、おま、何・・・!」

「銀時、嬉しいこと言ってくれるぜ・・・!」


逃げる暇なく、土方に口付けられる。
さらに薄く開いた唇の間に、土方の濡れた舌が差し込まれる。
煙草の苦さに、思わず瞳を固く閉じる。土方は強引だ。


「んんっ」



テーブル越しに身を乗り出してまでする男同士のディープキスは、さぞ異様で、目立っていたことだろう。

それはほんの一瞬のことに過ぎなかった。キスを堪能する暇など無く、俺はすぐに土方の身体を押しのけた。

しかし周囲の視線が痛いほどに突き刺さる。




周囲、特に俺の隣の・・・二人だ。

空気が凍る、どころではない。ここは真空にでもなったかと思うほどに、息苦しい空間になっている。




「え、え、えええええええええええええええええええーーーーーーーーーー!?!?」





新八と神楽がこれでもかという程のボリュームで叫び声を張り上げ、俺は恥ずかしくて目を開けられなかった。







*** ***






今朝は雨が降っていたが、午後になると雨は止んでいた。
空は青く、雲ひとつ無い晴天だった。
強い日差しが、気温を上げていく。



信じられない出来事に愕然とする新八と神楽を置いて、俺と土方は逃げるように食堂を出てきた。



「土方、テメー・・・あんなトコでよくも・・・!!」


「ついフラッとな。あんな可愛げのあることを言うお前が悪い」





広い大学のキャンパスで、白いベンチのある小さな庭がある。
校舎の裏側で、目立たない庭だ。

白いベンチは雨でまだ少し濡れていたが、すぐに乾くだろうと思い、並んで座った。
二人きりで、美しい小庭を独占する。


最初は食堂でキスした件で口喧嘩をしていた。
しかしあまりに静かで穏やかな庭に、すっかり気分が落ち着いてしまう。
小鳥の囀りを聞いているうちに、無意識のうちに微笑んでいた。

俺たちは無言で視線を交わす。




相変わらず、会話などなくても、気持ちが通じてしまう。
もっと話をしたいと切実に思った時期もあった。



俺たちは、何か変わったのだろうか。





天を仰ぐと、青い空がどこまでも高く広がる。


小さな鳥が空を横切るのを、目で追った。



その先に薄く大きな、美しい虹が架かっていた。





暗く冷たい長い梅雨は、ようやく明けたようだ。





これからは、紫陽花の代わりに、大きなひまわりが咲くのだろう。






終。




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