7月の夕方、教室
7月上旬。
今日はめずらしく、未だ明けぬ梅雨の晴れ間の日だった。
連日の雨と、迫り来る夏特有のじっとりとした湿度に加え、昼間の強い日差しで、いつもより蒸し蒸しとして暑い。
もう夕方だというのに、黙っていても汗が次から次へと流れ落ちるほどだ。
7月の部室は暑い。
予算策定委員会が近いため、部費の計算やら予算の計上やらのために、書類仕事をしなければならなかった。
テスト期間だというのに、面倒な。
はぁ、と溜息をつく。
しかしこれも副部長という立場の自分の役割なのだから仕方ない。
自分に課せられた責任である以上(それが剣道に関わるなら尚更だ)やり遂げなければならない。
かと言って、くそ暑い部室で面倒な書類仕事をやるのはご免だった。
それならば、まだ部室よりはマシだろう、と土方が向かったのは、3年Z組の教室だった。
銀魂高校では、テスト1週間前から部活動が停止される。
しかし部活動が活動停止期間になったとしても、その空いた時間でテスト勉強する奴は何人居るのか――殊にZ組では――疑わしい。
むしろ部活をしている者にとっては、ハードな練習を休めるちょっとした息抜きの期間である。
……そこで息抜きしすぎてテスト勉強を疎かにすると、もちろん追試という名のツケが回ってくるのだが。
しかしこれは一般生徒の場合である。
この男――土方にとってみれば、たとえ練習がハードであっても剣道をしているときが一番楽しいのだから、
どうしてわざわざテスト期間に部活を休みにしてくれるのか、という恨めしい気持ちでさえある。
山崎あたりがこんな台詞を聞けば、たちまち青くなりそうな横暴さだ。
ともあれ、テスト期間中のため生徒達はふだんより下校時間も早く、きつい西日の差し込む校舎内はがらんとしていた。
影の濃く落ちた廊下も人気はなく、しんとしている。心なしか、部室よりは涼しいかもしれない。
Z組に着き、がらり、と遣り戸を開ける。
そこに居たのは、意外な人物だった。
「……銀、八?」
オレンジ色の教室の中にただ一人居たのは、担任だった。
いや、一応はこのクラスの担任である。「意外」というのはよくよく考えればおかしいかもしれないが。
そもそもこの担任教師には、ちゃんと教官室という居室もある。
ときどき、というかむしろいつも、その国語科資料室を根城にしているのだ。
教室で何か用事をする、というイメージはないだけに驚きだ。
いや、それよりも、持っているものにもっとギャップがある。
銀八は、自在ぼうきの柄を手にしていたのだ。
「何してんすか?」
思わずそう聞いてしまった。
「何してるって…見りゃわかんだろーが。」
「……掃除?」
「お前なァ、ほうき持ってる奴にクエスチョンマークいらねーだろォ」
「…じゃなくて、何か先生と掃除って結びつかねーし。何で掃除なんてしてるんスか」
何度か銀八の居室に入ったことがあるが、散らかり放題だったことを思い出しつつ。
若干の好奇心に負けて、そう尋ねてみると。
「……あんまりこの教室が汚ねーからだろォが」
じと、と眼鏡の奥の瞳が、恨めしげにこちらを見てくる。
「って、俺の責任かよ?クラスの他の奴が散々散らかしてんじゃないスか!」
「オメーはこのクラスの住人じゃねーのかよ!言われたくなけりゃゴミとかちゃんと拾っとけコノヤロー!」
「ただの八つ当たりじゃねーかそれェェ!!」
はぁ、ともう一度溜息をつき、土方は自分の席である窓際3番目の椅子にどかりと座った。
鞄をどかっと机に置き、書類を作るのに必要なものを取り出す。
「それより多串君は何しに来たわけ?今テスト期間中だし、校舎内もう誰もいねェぞ?」
相変わらずほうきの柄を持ったまま、軽く顎を柄の先に乗せて、銀八が尋ねてくる。
「多串じゃなくて土方だっつーの!!何回言えば分かるんスか?!!
…俺は、剣道部の予算交渉すんのに部費の計算して、予算策定委員会に出す資料作り」
「ふうん。マジメだねェ多串君は」
しみじみと言われる。
「だから土方だっての!嫌がらせかよ、ったく……まぁ、こんな面倒くせぇの俺だってやりたかねーけど、
あの剣道部の中でやれるのもやらなきゃいけないのも俺しかいねぇし……」
言ってから、自分の口から思わずぽろりと零れた言葉にはっとした。
何か銀八って、愚痴出させるの上手いかも……
聞いて欲しくても誰にも零せなかった愚痴が、こんなところで自然に出てきて。
自分は、誰かに聞いて欲しかったのだなと初めて気づいた。
尤も、そんな大げさなものでもないし、別にそこまで嫌なわけではないのだが。
(何でだろう、別に話してみろとか言われたわけじゃないのに、自然に言葉が出てきた……)
いつのまにか、ほうきを持ったまま自分の席のすぐ隣に立ってる担任を、じっと見やる。
(コイツには、話したくなるような何かがあるのかもしれない)
ぼうっと、そんなことを思ってると。
「頑張ってんじゃん、お前。」
銀八が、ふわり、と笑みを浮かべ、ぽん、と頭に手を載せた。
瞬間。
心臓がありえないほど大きく跳ねた。
「オメーらも3年だし、この夏で引退だもんな。あとちょっとしかねーんだ、悔い残んねーようにな、」
くしゃくしゃ、と髪を乱す手に、こんなに胸が騒ぐなんて。
初めて見るやわらかな笑みに、労わるような懐かしむような声音に、切ないほどに苦しくなるなんて。
ちょっと待ってくれ、何だコレ。
俺の心臓は、いきなり壊れちまったんじゃないだろうか?
銀八の言葉にははい、とだけ答えるのがやっとで。
広げた紙も計算機も筆記具もちらかしたまま、再び掃除をし始めた銀八を眺めた。
すると、またも衝動的に、言葉が溢れてきた。
「先生は、ときどきそうやって、教室の掃除してるんスか?」
「あん?……ま、たまに、気が向いたときに。」
銀八の顔が引きつり、「余計なコト聞きやがるなこのガキは」と言っているように左頬がぴくんと動いた。
だから、何だか深入りしてみたくなってしまった。
「何で掃除?何か、精神統一とか?」
ぶっ、と銀八が吹き出した。
「せ、精神統一っておま……く、はははっ、いいキャラしてんなァお前!」
……ヤバイ。
笑った顔、何かキた。
「んー、ババアに怒られんのよ掃除しねーと。俺が新任のときさ、ババアがクラス見回りに来て、
『オメーのクラスが一番汚ねーじゃねーかボケ!教室は綺麗にしやがれェェ!!』ってもっそい怒られてね、それ以来」
ババア、というのは言わずと知れた、この高校の理事長のことだ。
コイツがババアに拾われて、ここの教師になったってのは嘘じゃなかったんだな。
「ババアの言うにはさ、『掃除のできてないクラスは荒れる』んだってさ。それ全面的に信じてるわけじゃねーけど、
やっぱ、オメーら全員をちゃんと卒業させなきゃいけねーし。ときどきクラスの様子見に来て、汚かったら掃除してんよ」
意外だ。
すっっっげー意外だ。
まさか銀八がそんなことを考えていたとは。
糖分と、自分が楽することしか考えてないと思ってたのに。
よく教師になんてなれたな、と常日頃思ってたコイツが、そんなことをしていたとは。
誰も見ていない放課後の教室で、一人掃除をしながら、コイツは何を思ってたんだろう。
「あーあ、余計なコトしゃべりすぎちまったなァ。こんなこと言うつもりなかったのに」
がしがしと、好き勝手な方向に撥ねまくった髪に手を突っ込み、無造作に掻いている。
どうやら困ったときや決まりの悪いときの、銀八の癖らしい。
「オメーって不思議な奴……勝手に言葉が出て来ちったんだもん。何かしゃべりたくなるようなモン持ってんのかなァ?」
とどめを刺された。
自分と思考回路まで似ているのだろうか。
しかも相手についさっき感じた印象と同じこと思われたって……
心臓を貫かれたような衝撃とともに、土方少年は、恋に落ちてしまった。
ああ、窓の外の世界は夕映えに飲み込まれている。
西日の差す教室は机を床をオレンジ色に染め。
彼の銀髪も、きらきらと、朱金に輝いていた。
不思議だ。
突然、世界が美しくなった。
「お。」
掃除をしてた銀八は、何か見つけたらしく、しゃがんで手を伸ばしてそれを拾った。
「今日はすげー暑ィよなァ?」
にやり、と悪戯を考え付いた悪童のような表情をして言う。
「だったらその暑苦しい白衣脱げばいいだろ。何で暑いのに長袖着てんスか」
「あーそうね、白衣は先生のトレードマークだけど暑ィしな」
ばさ、と乱雑に白衣を脱ぎ、その辺の机に置く。
(その仕草やら汗のにじんだ身体やらが、何だか妙にえろいんですが先生……!)
同じ男にこんなこと思うのは相当おかしな話だが。
ただ白衣を一枚脱いだだけなのに、その色気は何なんだ?!
「じゃなくて、オメーも暑くね?」
にじりよってくる銀八から不穏なオーラが出てて、土方は悪寒からか、額から汗を流した。
「はあ、まぁ……夏の部室ほどじゃないスけど」
内心警戒しつつ、ぼそぼそと答える。
「そんな多串君を先生が涼しくしてあげまーす。」
言うと、いきなり背後に回りこんで、髪を鷲づかみにされた。
髪を引っ張られる痛みよりも。
銀八が髪に触れているというだけで、心拍が急激に跳ね上がる。
「おーしできた!」
右手のそばに手をついて机から身を乗り出し、前から覗き込んでくる。
その顔の近さにも狼狽してしまう。
満足げに笑う顔がその仕草が、あまりに普段と違って無邪気すぎて、可愛い、と思ってしまって。
オイオイオイ、コイツ男だぞ、正気かお前?!と内心で猛烈にツッコミ。
「おー、カワイーじゃんトシ子ちゃーん!」
「……何してんスか」
それだけ言うのが精一杯だった。
「誰のか知んないけど、女子がゴム落としていったみたいでさー、お前似合うってマジで!」
どうやらこの教師、人の髪を女子のように結んで遊んでいるらしい。
余程土方の髪型が可笑しいのだろう、けらけら笑っている。
お前人の気も知らないで何してくれてんだよ。
大体お前「トシ子」って!いつも「多串」なんてふざけた名前で呼ぶから、マジで名前覚えてないのかと思ってたのに。
俺の呼び名を知らなきゃつけられない言い方してくれやがって……「トシ子」なんて呼ばれて内心喜ぶ俺はバカだホントに!
無防備に近づいて人の髪に触れてくれて、それでこっちがどう思うかわかってんのかよ。
しかもこんな他愛ないイタズラで喜んでるコイツ可愛すぎ。
(……昨日までの俺だったら怒ってたかな)
顔を熱くしながら、憮然とした表情を必死に作った。
「いーなァお前、サラサラストレートじゃん。綺麗な髪してんなァ」
気まぐれな担任は、いつのまにかゴムをほどいて、指で髪を梳いている。
感触を楽しんでいるのか、何度も指で梳いて、心底羨ましそうな声で言う。
何が涼しくしてやる、だ。
部室よりも暑くなっちまったじゃねェか。どうしてくれんだよ!
「……先生の髪の方が、綺麗です」
考える間もなく、手が伸びた。
信じられないくらい細くてやわらかくて。
沈みゆく夕陽の光を浴びて、きらきらと輝いていた。
「はぁ?!!」
銀八が目を見開き、ほんのりと頬を朱く染めた。
そんな顔見せられたら―――!
衝動って、何て恐ろしい。
我に返ったのは、銀八を抱き寄せ、キスをしてしまった後だった。
自分が一番びっくりして。
がたん、と盛大に椅子の音を響かせて立ち上がる。
「……帰ります、」
と、真っ赤になった顔で俯きながらそう言うと。
鞄を引っつかみ、土方少年はばたばたと教室を出て行ってしまった。
「……机の上のモン、全部忘れてんじゃねーかバカ、」
ふふ、と笑んで、机に手を伸ばし、触れてみる。
先ほどまで使っていたこの席の主に向かって、そう一人ごちながら。
「なに、今の……、」
膝の力が抜けて、ぺたん、と冷たい床に座り込んでしまう。
「参ったなァ…………」
がりがりと、無造作に髪を掻きむしって。
窓の外に広がる、泣きたくなるほど圧倒的に美しい夕映えを、ただただ無性に愛しく思った。
fin.
碧月 紗莉夕様より頂きました!
3Z土方君、恋に落ちるの巻ですね〜w
ドオォォンと音が聞こえるかという程に、思いっっきり恋に落ちていますね。笑
可愛いし初々しくてたまりません!土銀八、大好きです!
紗莉夕様、本当にありがとうございました!!
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