翌日の朝、銀時はホームルームの始まった頃にフラフラと教室に入ってきた。
「おい坂田、遅刻だぞ?どうした」
土方が出席簿を開いて、銀時に声をかける。
銀時はよろけながら教卓の前まで出ていき、蚊のなくような弱々しい声で答えた。
「すいません、先生・・・俺、気分悪くて・・・」
目元には大きなくまがあり、口元をハンカチで覆っていた。
銀時の瞳はもともと紅い色をしているが、今日ばかりは白目の部分も真っ赤になっていた。
かすかに潤い、まるで涙目に見える。
それを見た土方はあることに気付き、ショックを受けた。
(・・・こんなに目を赤くして、まさかコイツ・・・
俺に「相手にしてない」と言われて、一晩中泣いてたのか!?)
土方は表情こそ変えなかったが、内心は動揺していた。
特に今朝の銀時の姿は、哀れなほどにみすぼらしい。
目は赤いし、くまがあるし、顔色も悪い。
気分が悪そうに口元を手やハンカチで覆い、髪も乱れていた。
ふらつく足元に、弱々しい声がさらに疲れた雰囲気を醸し出す。
普段は元気がいい銀時だからこそ、よほどの事があったと想像してしまうほどだ。
土方は「俺のせいか・・・?」とまた胸の中で罪悪感が疼く。
そして、たった一言でここまで弱ってしまう性格を、いじらしく感じた。
(あーあ、こんなになっちまって可哀想に・・・後でフォローしてやろうか・・・
でも優しくしてやって、余計な期待をさせたら、もっと可哀想か?
しかしコイツは、そんっなに俺の事が、好きなのか・・・。)
土方はそう思いながら、目を細めて銀時の後ろ姿を見つめた。
「オイ、どうした銀時」
席についた銀時に、後ろの席の桂がそっと声をかける。
「よおヅラ・・・俺さァ、昨日寝てねえんだ」
眠くて仕方がないと言った表情で、銀時が桂を振り返る。
「寝てない?何故だ」
「土方センセーをさ、手作りマヨネーズでオトそうと思って・・・
徹夜でマヨネーズ試作してたんだけど、マヨ味見し過ぎて気持ちワル・・・おえぇ」
マヨネーズの味を思い出したらしい銀時が吐きそうになり、ハンカチで口元を抑える。
みるみる顔色も悪くなっていく。
「またバカなことを・・・で、出来たのか?マヨネーズは」
「まーね、でももう作るの止めたんだ。
だって美味いのかどうか・・・つーか食べ過ぎて味なんてわかんねーよ。
どれも同じじゃん?マヨはマヨでしかねーよ!それ以上でもそれ以下でもねーよ!
マヨの何がいいのか分からねー・・・俺はもうマヨなんか見たくねーの!」
「マヨでオトせると思ってるお前の発想からして分からんがな」
桂に向って逆ギレするも、屁理屈は自覚している。
銀時は唇を尖らせてふくれたが、桂に言い返す元気もなかった。
「あ、ダメ・・・マジで気持ちワル、頭も痛ェし・・・何コレ、マヨの呪い?」
「寝不足だろ、あと塩分や油分を取りすぎだ」
「うっぷ・・・俺、保健室・・・行くわ・・・」
ホームルームが終わると同時に、銀時はフラフラと保健室へ向った。
少し寝かせてもらえば体調もよくなるだろうと思い、保健医に頼みこんでベッドを貸してもらった。
そして銀時は、その日の3限までサボり続けて、ぐっすりと寝こんだ。
熟睡したので、スッキリと目が覚めた。ひとまず、寝不足は解消した。
しかしマヨの味見をし過ぎたせいで、胃はもたれたままだ。
気持ちの悪さは相変わらずであったが、
次の4限は最愛の土方の授業のため、銀時は慌てて教室に戻った。
相変わらず土方はチャイムと同時に教室へ入る。
そしてしんと静まり返った空気のなか、速やかに授業を行う。
いつもと同じ授業風景だったが、そこには銀時がいなかった。
「ん?坂田は・・・」
小声でそう呟いた時、教室の後ろの扉から遠慮がちに銀時が入ってきた。
「すんませーん、保健室に行ってましたァ・・・」
相変わらず顔色が優れない。
土方は保健室と聞いて、また胸がチクリと痛んだ。
(・・・坂田、そんなに重症なのか・・・心の傷が・・・!)
「・・・で、大丈夫なのか?」
普段ならば、銀時を心配するような発言などするわけもなかったが、
今回ばかりは自分でも知らぬ間に、そう聞いていた。
そんな自分の無意識の言葉に、土方自身が驚いていた。
それ以上に驚いたのは銀時だった。
土方に関心を持ってもらえた事に喜び、表情を綻ばせた。
「あ、うん・・・大丈夫、です・・・」
銀時は舞い上がるような気持ちを堪え、極めて静かに一言だけそう答えた。
それ以上喋ると、調子に乗って余計なことを言ってしまいそうな気がしたからだ。
たとえば「じゃあ俺と一発どうですか〜センセ☆(ウインク)」などという、いつものノリだ。
そんな事を言ったらせっかく心配してくれた土方を怒らせてしまうだろう。
銀時も今日ばかりは、ふざけることを堪えた。
一秒でも長く、土方先生に心配されていたかった。
一方土方は、至って普通で真面目な回答をした銀時に違和感を感じていた。
違和感どころか、異常だとさえ思った。
(あの坂田が、こんなに静かで真面目だなんて・・・。
これはよっぽど、調子が悪いな・・・心の傷が、深いのかもしれねェ・・・)
土方はそう思い込み、銀時のことが余計に気がかりになった。
突然に態度を変えられてしまうと、何故なのか分からず、そのことで頭がいっぱいになる。
土方の意識は今、その予想外の言動で占められていた。
つい無意識に、銀時のことを考えていた。
銀時は大人しく席について、授業を受けた。
いつものとおりウットリと土方を見つめている。
もちろん普段の土方は、銀時の視線など気付いてもまるっきり無視だ。
銀時もそのつもりでいた。
無視されることは分かっている。
だからこそ、無遠慮なほど堂々と見つめていられるのだ。
しかし、今日の土方はいつもと違っていた。
授業中であるのに、銀時の視線に気付くと、銀時を見つめ返した。
そして何故か、銀時に向って何度か頷いたりする。
それは土方にとっては「あんま落ち込むんじゃねえぞ」と励ましているつもりであった。
しかし銀時には土方に励まされる覚えなどない。
視線の意味に見当もつかない。
突然に見つめ返されて、銀時は顔を真っ赤にしていた。
(ええっ・・・ちょ、センセ、何で見てんの?俺のこと!
すっげー見てる!すっげーガン見されてんですけどォォォォ!?)
ドキマギとしながら、何か言いた気な土方の視線を捕らえたが、恥ずかしくてそれ以上は顔を見ることが出来なかった。
嬉しい、けれど恥かしい。
思わず、視線を外して下を向いてしまう。
あまりにも顔が熱くて、煙でも出るんじゃないかと、銀時は思った。
汗をかき顔を赤くし、しまいには両腕で頭を抱えて恥かしさに耐えた。
それまで鬱陶しい程に自分を見つめていた銀時が突然目を逸らし、それどころか顔を背けている。
土方はそのことが理解できず、戸惑っていた。
自分と目が合えば、にこにこと明るく笑うだろうと予想していたからだ。
『ワーイ、センセーがこっちむいたー☆』
なんて子供みたいに喜んで、あっという間に機嫌を直してしまうだろうと思っていた。
土方は銀時を甘く見ている。だからそういう発想になったのだ。
ところが、予想に反して銀時は自分と視線を絡ませた後は下を向いて、一向に顔を上げない。
(どうしたんだ・・・分からねェ・・・)
多少なりともフォローしてやろうと思っていた心の傷を、えぐるような真似をしてしまったのだろうか。
辛い失恋に、また泣いてしまったのだろうか。
それとももう顔なんか見たくない程に嫌われてしまったのだろうか。
土方は様々なことを想定した。
いくら考えたところで憶測の世界だ。
結論など出てこない。理解など出来るわけがない。
(チッ・・・一体なんだってんだ・・・坂田は・・・)
土方は銀時の心情を想像していた。
授業時間中にも関わらず、終始銀時のことばかり考えていた。
結局、消化不良を起こしたような気持ちの悪さを残し、納得のいかないまま授業時間を終えた。
何故ここまで、たかが一生徒の事で気を揉まねばならないのか、土方には分からない。
4限のあとは昼休みだ。
生徒は弁当や売店で買ったパンなどを持って、それぞれ好きな場所で自由に食事を摂る。
銀時はいつも、仲の良い桂、高杉、坂本らとつるんでいた。
それぞれが自分の昼食を持って、銀時の席へ集まってくる。
そこで銀時は3人に、上機嫌で嬉しい報告をした。
「さっきの授業中、土方先生がずーーーっっっ・・・と俺の事見てたの、お前ら気づいた!?
嬉しいけど、すげーーー恥ずかしくて、下向いちまったよ!
あぁ、やっぱ先生って美形だよなー!!あの鋭い視線、ドキドキするってマジ・・・!」
まだ頬を紅潮させたまま、嬉しさのあまりクスクスと笑いが止まらない。
そんな銀時の様子を、3人が冷ややかに見ていた。
「銀時、そりゃあ・・・テメーの視線がウザ過ぎるから睨まれてたんだろ?」
高杉にそう言われて、一同が「あぁ」と納得した。
つられて銀時までも「あ、そーか・・・」などと思ってしまい、それに気付いてしょげていた。
それを坂本に「ヨシヨシ」と慰められて、「もう、うるせーよ!」と虚勢を張ったりする。
昼休み、4人で輪になり賑やかに過ごしていた。
そんな銀時の様子を、教室のドアにもたれて立つ土方がそっと見守っていた。
元気のなさを心配してのことだが、笑顔で友達と話しているので少し安心する。
ところが、土方はまた銀時の妙な態度に気付いた。
桂、高杉、坂本らが昼食を取っているのに、銀時だけは何も食べていない。
銀時の前には、いちご牛乳のパックがあるだけだ。
(まさか、食事も喉を通らないほど悩んでいる・・・?)
だとしたら、今の銀時の笑顔は、カラ元気なのかもしれない。
いつも元気で、食事も甘味も大好きな銀時が、食事を抜くなどとありえない。
食欲がないのだろうか。
朝は体調が悪かったらしい。
けれど、4限の授業の時には「大丈夫です」としおらしく答えていた。
もしやそれも、自分に心配をかけまいと無理をしていたのではないか?
本当は、まだ具合が悪いのかもしれない・・・。
(そうだ、失恋の傷なんか・・・そう簡単に癒えるもんじゃねェよな・・・)
土方の想像の中の銀時は、けなげで可哀想で懸命な人物に作られていく。
そんな銀時をいじらしく思い、応援すらしたくなっている。
けれど、銀時の想いを受け入れるわけにはいかない。
せめて、はやく元気を出してほしい。
その為にもとにかく何かしら食事は摂らなければいけないだろう。
「おい、坂田、ちょっと来い」
教室の入り口に立ったまま、土方が銀時を呼んだ。
雑談していた銀時はその声に驚き、弾かれたように振り返った。
紅い瞳がまんまるに見開かれる。
その目に土方が両腕を組んだ姿勢で、自分を待っているのが映った。
休み時間に土方が銀時を呼び出すなんて、今だかつてない事だ。
仲間の輪から離れ、小走りで銀時が土方のもとに駆け寄った。
尻尾を振った子犬のごとく、嬉しさが全身から溢れている。
「な、なにっ?土方センセ・・・!」
「お前、昼飯はどうした?」
土方が自分の昼食のことを気にかけてくれた事に驚き、そして感動した銀時は素直に答える。
「えと、食欲無くて・・・胃が・・・ちょっと」
「そうか・・・やっぱりな・・・食欲ねえのは分かるけど、食える時食っとかないと」
「センセ、それなんか武蔵っぽい人がよく言ってた台詞だよ」
「誰だ武蔵っぽい人って。まァいい。俺の昼飯のパンやるから、食え」
土方がポケットからパンを取り出す。
それは、マヨネーズのかかった総菜パンだった。
手のひらより一回りほど大きい平たいパンに、ソーセージとたっぷりのマヨネーズがのっている。
「うっ・・・先生・・・これマヨ・・・!」
銀時は今まさに、マヨネーズの味見のし過ぎで胃を壊していた。
いくら愛しい先生のくれるものであろうと、マヨネーズを見ただけで眩暈がする。
必死に我慢しようとしたけれど、滲む脂汗と、嘔吐感が止まらない。
朝も昼も何も食べていないが、胃の中にある胃液とわずかないちご牛乳が体内でうごめき出す。
マヨネーズの味を思い出しただけで、今にも吐いてしまいそうだった。
「うぇ・・・センセ、ごめ、無理ィィ・・・ッ・・・気持ちワリ・・・ッ!!」
顔を真っ青にした銀時はハンカチで口元を抑え、次第に涙目になっていく。
慌てて目に前の土方を押しのけ、廊下を抜けてトイレへ駆け込んだ。
その様子を土方は呆然と見ていた。
(食べものを見ただけで吐き気がするなんて・・・
そんなに弱ってやがったのか・・・坂田・・・お前、そこまで俺の事を・・・?)
銀時のいじらしさに同情して、土方の方がうるうると涙目になっていた。