記 憶 の 淵
あれ・・・
空が真っ赤だ・・・
空だけじゃない、全てが真っ赤だ
真っ赤なのは空じゃない
・・・俺じゃないか?
俺の頭部から流れる血液で 視界が真っ赤に染まって見えるんだ
どうして俺はこんなことに?
思い出せない
俺はどうして血を流して倒れているんだ?
・・・俺は・・・・・・誰だ?
俺は・・・ 僕は・・・
僕、は・・・
*** ***
身体が浮き上がるような疼きを感じ、不快に思いながら重い瞼を開ける。
ゆっくりと開く世界。そこは真っ白だった。
光が眩しくて、僕は再び瞼を閉じる。
「目が覚めたか」
誰かが僕に声をかけている。僕は突き刺すような眩しい光に用心をして、薄目をした。
だんだんと見えてくる天井。白い世界の正体は、真っ白な天井と壁。
ここは病院だった。
僕は病院のベットに寝かされているのだと知る。
重い頭を傾け、寝ていた所為で固くなっている首をゆっくりと動かして、左右を見渡す。
左側に大きな窓と白いカーテン。
右側には、黒い影の人間がいる・・・誰だろう。
「よお、気分はどうだ?」
低い男の声だ。
僕は目を凝らして目の前に座り、こちらを覗き込む男の顔を見る。
見たことのない人だった。
真っ黒な髪、鋭く青い瞳、口元はまっすぐに締められている。
医者かと思ったが白衣ではない。色の違うTシャツを重ね着しデニムパンツを履いた軽い服装だ。
彼は、まだ若い男だった。
(知らない人だ・・・誰?)
僕は思考の鈍った頭で彼の姿を観察していたが、さっぱり記憶にない。
「意識が戻って良かった、今医者を呼んでくる」
彼は低く優しい声でそう言い、足早に病室を出て行った。
僕は見覚えのない彼の後ろ姿が消えていったドアを、ぼんやりと見つめた。
病室は二人部屋らしくベットが隣にもう一つあるがそこは空いている。
僕ひとりしか居ない、がらんとした真っ白い部屋の中を視線だけで見渡す。
病院。
どうして病院にいるんだろう。
そういえば身体が自由に動かない。
意識ははっきりとしてきているのに、何か足りない。
どうして僕は・・・・・・あれ、僕は・・・・・・誰だ?
僕は誰で、どうして病院にいて、今は何をしているんだ?
そういえば、僕は自分のことが何も分からない。
足りないものは、記憶?
-------- もしや記憶が、ない?
そう気付くと、背中がぞっとした。
額から冷たい汗が流れ、身体が震える。
感じたものは、恐怖。
何も分からない。一体、自分の身に何があったのか。
僕は突然恐ろしくなり、目を大きく見開いて必死に過去を思い出そうとしていた。
全ての神経を脳に集中させて、記憶の手がかりを探して分けもわからず何かを考える。
考えて考えて考えた・・・がしかし、結局何も思い出せず、空回りする思考の堂々巡りだ。
僕の記憶には、過去の景色が何ひとつも無かった。
(今日はいつ?ここはどこ?僕の名前は?)
記憶を掬い上げようとしても、何も無い。
するりするりと全ての記憶が僕の掌から滑り落ち、流れて消えてしまう。
背中に冷たい汗が流れる。涙が出そうなほどに、混乱していた。
すると突然、額が割れそうなほどの強い痛みが脳に走る。
僕はじっと痛みに耐えながら、これが記憶を呼び戻すきっかけになるのではないかと思った。
苦しみで呼吸が浅くなり、乱れる。
このままでは頭の中が弾けてしまいそうで恐かった。
しかし記憶が戻るのならばたとえ額が割れても構わない。僕の記憶を返して。
(ああ、頭が痛い・・・!)
キリキリと痛む額を手で抑えるべく両腕を動かそうとしたが、それは適わなかった。
右腕が動かないのだ。
ピクリともせず、僕を包む掛け布団の中から出てこない。
自由に動く左手で右腕を触ると、ゴツゴツと固い感触、そしておかしな形をしていた。
(な、なんだこれ!?)
この右腕はどうなってしまったんだ。身体が動かずに確認もできない。
僕は絶望の淵にいた。混乱して目の前が暗くなる。
「それはギプスだよ、右腕を骨折しているから動かしちゃだめだ」
突然そう声をかけられてハッとした僕は、声の方へと首を向ける。
そこには白衣を纏った中年の男性の医者、その傍らに看護師、そして一番後ろには僕を看病していた先程の男がいた。
(そういえば医者を呼んでくるって言ってたな・・・)
医者は僕の身体を丹念に診てくれた。
どうやら、右腕を骨折し同じく右足首を捻挫しているようだ。かなり腫れているらしいけれど、自分では見えない。
命に別状はないので、安静にしていれば大丈夫だと診断してくれた。
医者の優しい言葉に、先程まで混乱しきっていた僕は次第に平常心を取り戻していった。
やっと落ち着いた僕は、素朴な疑問を医者に投げかけた。
「先生、僕はどうしてこんな怪我をしているんでしょうか」
そう聞くと医者は目を見開き、驚いた顔をする。
「交通事故だよ、君は車に撥ねられたんだ、覚えてないのかね」
「はい、僕は今・・・何も思い出せません。僕が何者なのかも」
僕のその言葉に医者も看護師も、そして後ろで立っていた黒い彼も驚き、場の空気が変わった。
*** ***
それから数日間、僕は入院生活を送ることになった。
身体検査や脳の精密検査を何度も行う。
意識は鮮明、脳自体に損傷は無く、日常生活に支障は出ないと言われた。
肝心の記憶については事故の衝撃が強いストレスとなり、一時的に記憶が混乱する事もあるという。
解離性健忘症という診断だ。時間をかけて様子をみるしかないようだ。
僕がひとりぼっちで入院生活を送っている間、黒髪の彼は毎日お見舞いに来てくれた。
彼が誰なのかを思い出そうと必死に記憶を探ったが、何の手がかりもない。
申し訳ない気持ちになりながら、僕は彼に尋ねた。
「すみません・・・あの・・・貴方は誰なんですか?」
すると彼は驚きもせず、表情ひとつ変えずに平然と答えた。
「赤の他人だ。初対面だから、お前が俺を覚えていなくて当然だ。気にするな」
「そう言われても・・・赤の他人がお見舞いなんて・・・どうして?何故僕に良くしてくれるんですか」
僕が抗議すると、彼は「それじゃあ自己紹介でもするか」と改まって僕へと向き合った。
「俺は土方だ。土方十四郎。お前の交通事故現場に居合わせた者だ。
狭い路地での交通事故で、他に目撃者もいなかった。俺が救急車を呼んでお前を病院に運んだんだ」
「そうだったんですか。土方さん・・・貴方が僕を助けてくれたんですね」
「お前の怪我も心配だったし事故の事も知りたいだろうと思って見舞いに来ていた。
まさか、記憶が無くなっているとは思わなかったが・・・だから尚更、お前を放っておけなくてな」
土方と名乗った彼は、無愛想な表情をしていたが根は優しい性格らしい。
彼の親切さに僕は嬉しくなった。
記憶のない僕にとって、唯一、『過去の僕』を知っている存在。
勿論『過去の僕』が誰なのかまでは、彼は知らないだろうけれど、それでも構わない。
彼が僕の側にいてくれたことが何よりもありがたく、心強かった。
「そうか・・・本当に、ありがとう。迷惑をかけてごめんなさい」
狭い路地で事故に遭った『過去の僕』。
一瞬だけ、この世界で生きていた自分のイメージが浮かぶ。
記憶が無い僕にとって、本当にこの世界に存在していたのかすら、確証が持てない。
僕は計り知れない大きな不安の中にいた。
(僕はちゃんと『ここ』にいたんだ・・・それを、彼が証明してくれた・・・)
何を考えても常に付きまとう不安の中、一瞬の大きな安堵。
しかし安堵と不安の差が、余計に僕の恐怖を大きくした。
僕は自分でも気付かないうちに、嬉しくて、悲しくて、恐ろしくて、様々な感情が昂ぶり涙を零していた。
ぽろぽろと分けも分からず溢れ出る涙は、自分の意志では止まらない。
右腕の動かない僕は、左手で顔を隠して泣き続けた。
そんな僕の姿を見ている土方さんは、少し気まずそうだった。
ただ声もかけず、しかし僕の元から去ることもなく、黙って側にいれくれた。
彼の優しい気遣いに甘えて、僕は涙が涸れるまで、思い切り泣いた。
静かな病室には僕と彼しかいない。遠慮することもなく僕は涙を流し続ける。
どのくらい泣き続けただろう。明るかった空が、夕暮れでオレンジ色になっていた。
散々に泣いた後は、気分が晴れて、やけに頭がすっきりとしていた。
真っ赤になった目と鼻を手鏡で見て、自分の姿に可笑しくなる。
僕が笑うと、土方さんも僅かに笑ってくれた。
気持ちが通じたようで、くすぐったい。そしてやけに、嬉しいと思った。
彼が見守ってくれることが、どうやら僕の心の支えになっているみたいだ。
*** ***
「僕の名前は、坂田銀時って言うんですか?」
土方さんが持っていた僕の財布。
救急車に僕を乗せた時に、何か身元の分かるものはないかと手荷物を探してくれたらしい。
ズボンのポケットに財布が入っていたが、数千円の現金とどこかの店のスタンプカードくらいしかなかった。
スタンプカードに走り書きで「坂田銀時」とだけ書いてあった。
それ以外には、何も身元の分かりそうなものは持っていなかったそうだ。
坂田銀時。
これが僕の名前なのか、それすらも記憶がない。
この財布が僕以外の人・・・例えば家族や友人、もしくは盗んでしまった他人のものだったら、これは僕の名前ではないだろう。
不安要素ばかりの怪しい情報だが、今の僕にはこれ以外に頼るものがない。
暫定的に、僕は『坂田銀時』だという事になった。
「銀時」
土方さんが突然に、そう呼ぶ。
しかし聞き覚えの無い名前には、咄嗟に反応できない。
彼の声は耳の中を素通りしたが、かなり遅れてから僕を呼んでくれた事に気付いた。
他人の名前のようで違和感は拭えないけれど、この名前に慣れなくてはいけない。
僕は作り笑顔で土方さんを振り返る。
「はい、何ですか、土方さん」
「いや・・・敬語は止そうぜ、あと土方さんってのも変だ」
「じゃあ、何と呼べば・・・」
「別に何でもいいけどよ、かしこまった感じは性に合わねえ」
相変わらず無愛想な彼だが、正直で素朴な性格をしている。
目つきが悪いので怒っているように見える事も多々ある。しかしいつでも怒っている訳ではない。
そんな彼が最初は恐かったけれど、今は少しだけ可愛らしく見える。
「じゃあ、土方くん?」
「ああ、何でもいい」
視線を合わせて小さく微笑む。
まるで初めてできた友達のようだ。
今の僕には知り合いがいない。人間関係がない・・・こんなに寂しい事って他にあるだろうか。
人間関係が無いってことは、僕はこんなに人が大勢いるのに、一人ぼっちなんだ。僕は誰も知らない。
孤独の寂しさと恐ろしさを感じて仕方がない。
でも赤の他人だった土方くんが、僕の友達になってくれた。
初めてできた友達。今の僕には、彼しかいない。
彼が僕の全てだ。
土方くんはそれからも毎日、僕の病室へと来てくれた。
チョコやらプリンやら、美味しいお菓子を持って来る。
時には右手の使えない僕に、丁寧に食べさせてくれたりもする。
いつも決まって甘いものばかりだけど、それを美味しく感じた僕は、彼の差し入れを毎日楽しみに待っていた。
彼に会うことだけが、不安ばかりの日々において僕の唯一の娯楽であり、生きる支えだ。
「ねえ土方くん、どうしていつも甘いお菓子ばかりなの?」
「具合の悪い時には、甘いモンがいいような気がしてな・・・もしかして、嫌いか?」
「ううん、どうやら僕は、甘いものが好きみたいだ。すごく美味しい」
「そりゃ良かった、また買ってきてやるよ」
土方くんはとても親切に僕の面倒を見てくれる。
いつまでもそんな彼に甘えてはいけないと思いながらも、満身創痍の僕には何も出来ない。
無責任に全てを投げ出し、僕は赤の他人の彼に頼りきってしまっている。
そんな日々を送りながら、いよいよ僕は退院することとなった。
いつまでも病院にはいられないのだ。手持ちのお金もない僕には入院費が払えない。
事情が分かっている病院側が、少しの間支払いを待ってくれると言うけれど、それも期限付きだ。
期限が過ぎたら、取り立てられる。
入院費どころか住む家もないというのに・・・厳しい現実に、僕は途方にくれた。
警察に申し出て身元を割り出してもらうか、それでも身元不明なら役所で戸籍の再登録申請をして生活保護を受けるべきだ。
病院の担当者からそうアドバイスがあったが、今の僕には現実味がなかった。
明日からの生活を暗中模索している現状で、戸籍や生活保護の手続きまで意識が働かない。
ゆっくり時間をかけて記憶を戻そうと医者は言ったのに、これでは記憶が戻る前にのたれ死んでしまいそうな不安を覚えた。
その話しを聞いた土方くんは入院費を立て替えて支払い、さらに自分の家に居候することを提案してくれた。
「申し訳ないよ、そんなこと・・・!」
僕が恐縮してかぶりを振ると、土方くんは怒るでも笑うでもなく真面目に僕をたしなめた。
「それしかないだろう?記憶も金も何も無いんじゃ生きていけない。明日からホームレスになる気か」
「・・・そうだけど、でも、土方くんにここまで世話になったら・・・」
「もちろんボランティアじゃねえから、そのうち入院費は返してくれよ、それでフェアだろ」
土方くんは真剣に僕の身を案じてくれていた。
そして僕にも、生きるためには彼の世話になられなけばいけないのは分かっていた。
他の手段は何ひとつない。無力な自分が悲しかった。
申し訳なく思った僕は何度も頭を下げて、彼の家に居候させてもらうことにした。
「学生の一人暮らしだから何も無いしすげー狭いけど、まァそれが嫌なら早く記憶を取り戻すんだな」
土方くんは優しく微笑んでくれた。
萎縮して肩身の狭い思いをしている僕に「気にするな」と言ってくれているんだろう。
真っ直ぐに、そして遠回しに、土方くんは僕に気を使ってくれる。
彼の優しさだけが、今の僕の支えだ。
(そうか、土方くんは・・・まだ学生なんだ)
穏やかで頼もしい彼が眩しくて目を細めた僕は、その凛々しい横顔を熱く見つめた。