土方くんの家は、住宅とビルの谷間にある木造2階建ての古いアパートだった。

間取りは1LKで、玄関から部屋中が見渡せるほどに狭い。
小さな玄関を入ると右手にユニットバス、そして奥にキッチンがある。
突き当たりの部屋がリビングで、壁際にベッドがある。ただそれだけの質素な部屋だった。

「テレビもパソコンもないんだ」

僕が苦笑いすると土方くんは少しムッとした顔をする。

「部屋は寝に帰るだけだから、いらねえんだよ」

寝に帰るだけ、というのも一目瞭然なほどに、部屋にはモノが無い。
箪笥には少ない洋服が乱雑に詰めこまれ、床に少し古いマガジンが数冊積んである。
日当たりが悪く薄暗い部屋だが、その分静かで涼しく過ごし易いのだと土方くんは言い張った。

僕は居候の身なので、それ以上文句は言わなかった。
本来なら住む家も無くてホームレスになるところだった事を思えば、屋根のある場所に置いてもらえるだけでもありがたい。

腕のギプスはまだまだ外せないし、足首の酷い捻挫も完治したわけではない。
自由に行動することはままならず、更にいまだ記憶の欠片すら戻っていない。
当分この部屋に篭っているしかなかった。

こんな状態の僕に出来ることなど、何ひとつ無い。
強いて挙げるなら、家主の土方くんの邪魔にならないよう気を配る事くらいだ。

だから僕のことは放っておいてほしいと、土方くんに告げた。
得体の知れない赤の他人の僕なんかを部屋に置いてもらえる、それだけで十分過ぎるほど親切だ。
土方くんにはそれ以上、何も求めちゃいけない。

それにも関わらず、土方くんは一生懸命に僕の面倒を見てくれた。
食事面では自炊は稀だが、代わりに美味しそうなお弁当を毎日買って来てくれる。
彼1人なら、気軽に学食や外食で済ませる事も出来るはずなのに。
更に自分は食べない甘いお菓子も、わざわざ僕のために用意してくれる。
僕がいる所為で、かなり余計な出費をさせてしまっている筈だ。

当たり前だが僕は洋服を持っていないので、着替えは体型のほぼ同じである土方くんの服を借りていた。
但し僕の右腕はギプスをしている為、前開きの服を羽織ることしか出来なかった。
不便さを感じつつもじっと我慢していたら、土方くんは自分のTシャツを肩のあたりから切り開いた。
その肩の上にあたる部分に、ボタンを縫い付ける。
突然何をしているのかと思えば、僕が片腕を通さずとも着られるよう改良してくれたのだった。
こうして、土方くんの上着の何枚かが、僕の為に犠牲になってしまった。

そして日中は彼が学校の図書館で借りてきてくれた本で時間を潰すという、なんとも優雅な生活を送っている。
至れり尽せりの気遣いに、僕は申し訳なくて仕方がなかった。
のんびりしている場合じゃないのに、と焦る気持ちもある。
しかしここは土方くんのおかげで居心地が良過ぎてしまう。僕は彼に甘えてしまい、何もせずに一日が終わっていく。

土方くんは自分の事よりも、僕の事を優先してくれるのだ。
ここまでしてもらっては悪い、と遠慮もする。けれど、実はすごく嬉しかった。

何者なのかも分からないこの僕にここまでしてくれるのは、この世界で彼以外に有り得ない。
僕には他に行き場所なんか無い。何処にも、誰にも求められない僕という空しい存在。
しかし彼だけが僕を求め、ここに居てもいいと許してくれる。

「土方くん、本当にありがとう。僕は君がいなかったら、生きていない・・・生きていけないよ」

感謝の気持ちが胸に溢れて、素直に僕は土方くんへ伝える。
すると純朴そうな彼は頬を赤く染め「気にするな」と照れる。そんな彼が可愛くて仕方がないと思う。
本当に、僕は彼が居なければ生きていけないだろう。

何かお礼をしたいと思い彼にお使いを頼んで、片腕ながら小さなキッチンで手料理を作ってみた。
二人で向かい合い、食卓につく。なんだか家族みたいだ。
土方くんは僕の料理を、美味しそうに平らげてくれた。

「銀時、お前もしかして、料理が得意だったんじゃねえの?また、作ってくれよ」

「うん、簡単なものばかりだし、味付けも適当だけど、美味しいものが出来たね」

二人で食卓を囲い、笑い合って雑談する。僕にとってはこの日常が全てだ。
記憶が無いことさえ除けば、僕の気持ちは温かく満ち足りている。


過去の僕がどんな生活をしていたか知らないけれど、きっと今の僕の方が幸せだと思う。

彼の優しい笑顔だけが、僕の存在証明のようなもの。

土方くんに出会えてよかった。



彼を想うと自然と笑顔がこぼれる。





*** ***




一日中狭い家に篭っている僕はやはり運動不足らしく、夜になっても中々寝付く事が出来なかった。

土方くんの部屋には当然ベットは一つしかない。
来客の可能性など考えていないこの狭い家には、敷布団も掛け布団も一切のものが余分には無かった。

優しい土方くんは、当たり前のように僕にベッドを譲ってくれた。
固くて冷たい床に家主である土方くんを寝かせるなんて事は出来ないと、僕は拒否した。

しかし土方くんは僕の抗議を受け入れてはくれなかった。
押し問答の末、結局僕がベッドを使い、彼はその足元の床に転がって眠っている。
寝具の類は無いので、座布団を枕にして、大きめのタオルを身体にかける。

最初の頃は居候の身で家主より贅沢をしてしまい、心苦しい思いをした。
しかしそんな気分も吹っ飛ぶほどに、土方くんは毎晩床の上で心地良さそうに眠っている。
きっと学校やバイトなどで一日忙しく活動して、身体が疲れているのだろう。
羨ましいくらいにあっと言う間に、深い眠りに落ちてしまう。

その様子をベッドから見下ろすと、不思議と心が和んだ。

暗い部屋で土方くんの寝息を聞くと、寝つきの悪い僕もやっと眠ることができる。





ふと気付くと僕は闇の中にいた。
目の前は真っ暗。
空も真っ暗。
足元も真っ暗。
何もない足元へと身体が沈む。
じわりじわりと、何かに吸い込まれるようにつま先から踵、くるぶしと順番に飲み込まれていく。
ずずずずず、脳の中心が疼くような不快な音が耳の奥に聞こえる。
闇の中は氷のように冷たい。冷気が針のように僕の足を刺し激痛が走る。
一方、真っ暗な空は灼熱のように熱い。肌や髪が燃えて焦げていく。
燃えるような熱と凍るような冷気から、僕は逃げ出すべく激しくもがく。しかし全く手足が動かない。
そうだった、僕は手足を怪我をしているんだった。
僕の身体は膝、腰、腹、胸と闇に沈む。頭まで飲み込まれたらどうなってしまうのだろう。
身体が真っ二つに引き裂かれるような気がして、ぞっとする。
無駄だと知りながら僕はそれでも、動かない手足に力を入れて必死にもがき続ける。

嫌だ、助けて、誰か、土方くん、助けて。
こんな辛い思いをするくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ。
誰か僕を殺して。土方くん、殺して。
早く・・・早く。




僕が恐怖に泣き叫ぶと、土方くんの声が天から降ってくるように遠く響く。


「おい、大丈夫か、銀時!」



目を開けると心配そうな顔をした土方くんが、僕を覗き込んでいた。
気付けばここは、もうすっかり見慣れた土方くんの部屋だった。
僕を飲み込んでいた冷たい闇はどこにも無くて、ようやく自分が夢を見ていたことを知る。

動悸と息切れだけが激しく、背中を中心に全身から大量の汗をかいていた。
土方くんの顔を見た途端安心してしまった僕の瞳から、不意にぼろぼろと涙が溢れた。

「悪い夢でも見ていたんだろ。うなされていたぞ」

僕の涙を指でぬぐってくれた土方くんは、ゆっくりと立ち上がって、僕の前から離れた。
激しかった鼓動が、やっと落ち着いてくる。

今でも思い出す悪夢は、今日初めて見たものではない。
記憶を失ってから、眠るとたびたび見てしまう夢だ・・・それは自分に過去がないという恐怖。
恐怖が闇となって、僕を襲う。僕はいつもその闇を克服する事も逃げる事も出来ずに、震えるだけだ。

(また見てしまったんだな・・・あの夢を)

一度あの恐ろしい夢を見ると、朝まで全く眠れなくなる。
病院に入院している時も、悪夢の所為で眠れない夜を明かした事があった。
こればかりは自分でどうする事も出来ない。僕は一人でじっと耐えるしかない。
眠れない夜ほど孤独で辛いものはないと思う。

僕が深い溜息をつくと、土方くんが戻ってきてベッドサイドに立った。
彼の方から甘く美味しそうな香りがして、僕は顔を上げる。

「ほら、これを飲め。ホットミルクだ」

温かいマグカップに真っ白なミルクが注がれている。
立ち上る湯気を見ていたら、気持ちが穏やかになっていった。

「ありがとう」

僕はマグカップを受け取って、ホットミルクに口をつける。
それは想像以上に甘く、その味に驚いた僕は目を見張った。牛乳なのに喉が焼けそうな程にべっとりと甘い。
普通の人には敬遠されそうな甘さだが、僕の好みにぴったりと一致する。

「銀時用に砂糖を一杯入れた、俺の特製だぜ」

土方くんは得意気に口の端を吊り上げて笑った。
甘党の僕のために、わざわざ甘いホットミルクを作ってくれたのだ。
その優しさに僕は指先から全身まで溶けてしまいそうだ。嬉しくてまた泣きそうになった。

涙を堪えてそのホットミルクを飲み干すと、悪夢に冷えた身体と心が温かくなる。
空になったカップを土方くんが片付けて、そっと僕の手を握ってくれた。

「眠れないなら俺が・・・一緒に寝ようか?」

僕をまっすぐに見つめる土方くん。

その瞳は正直で純粋で、ただただ優しい。

これ以上彼に甘えてはいけない、そう思いながらも、僕は反射的に頷いていた。

土方くんは僕の手を握ったままベッドに上がってきて、僕の隣に横になる。

彼のぬくもりが何よりも心地よくて、悪夢のあとは眠れた試しのない僕が、すぐに眠りに落ちてしまった。



土方くんのあたたかさ。

ゆっくりと深く規則正しく繰返される彼の呼吸。

一人ぼっちの孤独という恐怖が薄れていく。

僕の乱れた心に土方くんの存在が満ちる。

この手を離したくないと、僕は彼の手を強く握りしめた。




*** ***




僕の日常は同じ事の繰り返しだ。

自由に外出する事ももままならない怪我を抱え、狭い部屋に篭って暮らしている。
変化のない毎日。鬱々と沈む心。
考えることはいつも同じ・・・過去の事、そして未来の事。そのどちらにも希望は無い。

記憶の無い僕は、常に襲い掛かる孤独や不安に必死に耐えていた。
そのストレスが夢になって現れる・・・あの、闇の夢だ。
不安と絶望の闇に飲み込まれていく恐怖には勝てず、その夢を見るたびに僕は不眠になる。
悪夢が恐い、眠るのが恐い、けれど眠らなくてはいけない・・・そんな気持ちで眠れるわけがない。

眠れない事でナーバスになり、気持ちが荒れて、心身共に不安定な状態になってしまう。悪循環だ。

土方くんは僕の不安を理解し、毎晩うなされる僕を可哀想に思ってくれる。
今まで解決策など無かった僕の不眠。
しかし土方くんの温かな救いの手で、僕はついに悪夢から逃れる事が出来るようになった。

それは彼の作ってくれる甘いホットミルク。
いつも同じ味、同じ温かさ。
僕はそれを飲むと、心が落ち着いて、深い眠りにつくことができる。
もちろん土方くんと手を繋ぐ事も忘れない。小さな一人用ベッドに、二人で寄り添って眠る。


ホットミルクと土方くんのぬくもり、それだけが僕の救いだ。


怖い夢を見るたびに、そのようにして夜を過ごした。
それがいつしか日常的な生活習慣となり、眠る前のホットミルクが欠かせなくなった。

今まで苦痛でしかなかった夜が、一日のうちで最も幸福な時間だと感じるようになった。
土方くんが僕を温めてくれるからだ。彼を抱きしめたいと思うほど、幸せに満たされる。


彼のおかげで僕はもう、全く悪夢を見なくなった。
一度眠ったら朝の光が差すまで起きることはない。


土方くんは懸命に僕を助けようとしてくれる。
赤の他人の僕なのに、これ以上ないほどに親身になってくれる。



もし彼がいなければ、僕は不安で発狂していたかもしれない。


こんな状態のまま、僕は1人ぼっちで生きていく自信が無い。


彼の存在がどれだけ僕の支えになっているか、いや・・・支えどころか、僕の全てだ。



土方くんは、僕の全て。



僕には彼しか、ない。






次へ


ノベルトップへ戻る