どれだけの間、眠っていたのか分からない。
目が覚めると部屋の中は真っ暗だった。
外からはパタパタと雨が屋根を打つ音が聞こえる。
「雨だ・・・」
何も考えず思った事を呟く。自分の発した声でゆっくりと目覚め始める。
真っ暗な部屋に、唯一の同居人である土方くんの気配はない。
ベッドの上は僕の眠っている場所だけが温かく、他はひんやりと冷たい。
土方くんがこのベッドを出てからかなりの時間が経っているのだろう。
雨のせいで部屋の空気が冷え切っている。僕は寒さに身震いをして、掛け布団を顔まで引き上げ丸くなる。
何もする事がない僕は再び惰眠を貪るつもりで瞳を閉じたが、もう眠くはなかった。
ぼんやりとして覚醒しなかった意識も、時間が経つにつれ次第に鮮明になっていく。
(目が覚めたのは久しぶりのような気がする・・・)
力なくベッドに横たわったまま、瞳を開けて宙を見つめる。
少しづつ暗闇に目が慣れ、あたりが見えるようになってくる。
いつもと変わらない部屋。端には古いマガジンが積んであって、その横には中身の少ない古い箪笥。
窓には分厚い遮光カーテンが引いてある。このカーテンの所為で、日当たりの悪いこの部屋はさらに暗くなるのだ。
物音がしない静まり返った空間に、この部屋を叩く雨の音だけがパタパタと響く。
何気なく周囲を見ながら、僕の意識がはっきりとしていく。
(今日はいつだろう?)
(どのくらい眠っていた?)
(土方くんどこに行ったのかな)
(今は何時だろう)
(おなかが空いた)
(身体がだるい)
(この間、途中まで読んだ本は、どんな話だっけ?)
(土方くんに会いたい)
(寒いなあ)
ぽつりぽつりと浮かび上がってくるのは、意味のない思考ばかりだ。
こんな下らないことさえも、最近は何ひとつ考える事なく、ひたすら眠り続けていた。
ようやく働き出した脳によって、今まで逃げていた疑問が胸の奥に湧き上がる。
(どうして僕は・・・)
(どうして僕は、今まで眠ってばかりいたんだろう)
(どうして僕は、何も考えずにいられたんだろう)
(どうして彼は、僕の面倒を見たがるんだろう)
(どうして彼は、僕を外に出したくないんだろう)
(どうして彼は、僕が大学に行きたいと言ったら激怒したんだろう)
(・・・僕はこのままでいいの?・・・そして)
「土方くん、きみは一体・・・何をしているの?」
時々不可解な行動をする土方くんへ呟く。当然返事は無く、部屋は静まり返ったまま。
パタパタと小さな雨音だけが、空しく僕の耳へと届く。
*** ***
もう眠れそうに無いと思った僕は起き上がり、ゆっくりとベッドから降りる。
今まで大抵は起きる時に土方くんが僕を支えてくれた。体力が衰えている為、一人きりで立つのは久しぶりだ。
ふらつく足元に力を入れて、両足で床をしっかりと踏む。
窓際まで歩き、重く分厚い遮光カーテンを開けると、雨空の薄い光が差し込む。
時間が分からなかったが、どうやら外は昼間のようだ。
暗く狭い部屋全体が明るく照らし出され、小さな埃が光りながら空中に舞い上がる。
窓を開けて久しぶりに外を眺めるが、相変わらず正面には灰色の汚れたビルの壁しか見えない。
冷たい雨粒が顔に当たる感触を新鮮に感じながら、僕は下の地面を覗き込んだ。
そこには、以前見た時と同じように紫陽花が自生している。
前はまだ小さな蕾だった紫陽花は、雨に打たれながらも、今や満開に美しく咲いている。
紫色や青色、深いピンク色をした鮮やかな丸い花の束、雨に濡れた濃い緑の葉が僕の目を楽しませてくれる。
元気に咲く紫陽花の花に励まされたような気がして、嬉しくなった。
花の香りなんてこの窓へは届かないけれど、僕は思わず大きく息を吸い込み、深呼吸をした。
冷えた空気と濡れた頭が、僕の意識を鮮明にする。
曇った視界が開けてくるように、僕の世界が明るく広がる。
ここ最近のまるで霧のかかったような、朦朧とした意識とは比べ物にならない。
自然と僕の口元に笑みが浮かぶ。
「何だか・・・久しぶりに気分がいいや」
目を細め、笑顔で部屋を振り返る。
そこは鬱蒼として空気の淀んだ空間だった。
無気力な今までの僕にとっては居心地の良い世界だ。
しかし気持ちの晴れた今の僕には、あまりにも重く息の詰まりそうな部屋に見えていた。
思い立って僕はベッドシーツを綺麗に直し、テーブルを拭き、床の埃を掃いたりして、部屋中の掃除をする。
何もすることがないので始めた掃除だったが夢中で作業をこなすうちに、更に気分が活発になってくる。
掃除というのは一度始めると、とことんやりたくなるらしい。
汚れが取れる瞬間の快感で楽しくなる。
思わず口ずさむ鼻歌は、僕の即興だ。
「うん、かなり綺麗になった。お風呂洗って僕もシャワーを浴びよう」
まだ動きのぎこちない右腕をリハビリ代わりに使い、裸になってユニットバスを泡だらけにして洗う。
掃除をやりきった頃には、起きてから何時間も過ぎていたようだ。
さすがに、身体もへとへとに疲れていた。
ピカピカになった浴槽に立ち、全裸で熱いシャワーに打たれたまま、今までのことを思い返す。
ついでに記憶の欠片でも取り戻せないものかと、頭の中をぐるぐると回転させる。
「ああ、だめだ・・・まだ何も思い出せない・・・」
僕が記憶を失ってから3ヶ月以上は経っているだろうか。
今だに過去のことを思い出せないのでは、一時的な記憶障害とは言い難い。
このまま一生、過去を思い出せないかもしれない・・・、僕はぞっとした。
「・・・土方くんはいつ帰ってくるんだろ・・・」
楽しい気分も一変して、記憶のないことによる将来への不安が再び僕を襲う。
足元が崩れ落ちるような恐怖を思い出して心細くなった僕は、無意識に土方くんのことを頼ってしまう。
こんな情けない僕を救ってくれるのは、彼しかいない。
(はやく土方くんに会いたいよ・・・)
まるでホームシックにでもなったかのように彼を思い出して、余計に寂しさを感じる。
肌を打つ熱めのシャワーが、何故かとても痛いと思った。
シャワーを終えて部屋に戻ると、換気目的で窓を開けたままにした部屋の中は、かなり気温が低くなっていた。
温まった身体を冷やさないようにと、土方くんの服を借りて着込む。
今が何時ごろなのか気になったが、見上げた壁掛け時計は止まっている。
以前から電池が切れていているらしい。
テレビも電話も無いので、正確な時間は確認出来なかった。
生活感の無いこの部屋は、僕には不便だ。
家主である土方くんが1人で暮らすには、問題ない。
時計もカレンダーも電話も、土方くんが持っている携帯電話一つで用が足りてしまうからだ。
この部屋に一人で置いて行かれた僕には、時間も日付も分からない。
別に分からなくても困りはしないけれど、閉じ込められているようで、少し寂しい。
何もすることがなく、ただ空白の時間を持て余す。
じっと家主の帰りを待っているうちに、雨でも明るかった窓の外は暗くなり、空は夜を迎えていた。
部屋の電気をつけると、外の光とは違う人工的な白い光が辺りを照らし出す。
しばらく日に当たっていない僕の腕が、蛍光灯の光で余計に真っ白に見えた。
運動もしていないので筋肉も衰え、以前より痩せてしまって、僕の身体はとても不健康そうだ。
痩せ細った肉体と、消えた記憶、不安定な精神・・・僕は自分のことが頼りなく心細い。
こんな時には、また、土方くんを思い出してしまう。はやく彼に会いたい。
「まだかな・・・土方くん」
読む気もしない本をパラパラとめくりながら、彼の名前を呟く。
名前を呼んでも答えが無いことにより、僕が今、この世界にひとりぼっちなのだと痛感する。
寂しくて仕方がなく、寒くはないのに不安で身体が小さく震える。
「まさか、事故に遭っていたら・・・どうしよう」
自分が交通事故に遭ったように、彼の身にも何かあったとしたら。
そう思うと恐ろしさで身体の震えが止まらない。
もし彼という存在を運命に奪われてしまったら・・・こんな孤独を一人で耐えるなんて、僕には無理だ。
宙を見つめた瞳が泳ぎ、背中に冷たい汗が流れる。
動揺し思考が混乱し始めた自分を抑える事に、僕は必死になった。
じっとしていられずに、狭い部屋をうろうろと歩く。
今か今かと土方くんの帰りを待つけれど、聞こえるのは雨の音ばかりで、彼の足音では無かった。
どうか、早く帰ってきて。僕は心配で心配で、これ以上は冷静でいられそうにもない。
「もう待てない・・・いつものあれを飲んで、いっそ眠ってしまおうかな・・・」
あれ、とは僕にとっての精神安定剤のようなもの。
作り方は簡単だ。真っ白なミルクを温めて、砂糖を溶かすだけ。
いつも土方くんがそうしてくれるように、ホットミルクを飲めば落ち着けるはずだ。
僕はキッチンへ立つと、殆ど中身の入っていない冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、小鍋に移して温める。
今まで幾度となく不安な夜をホットミルクで凌いできた。
・・・これで今夜も、きっとすぐに眠れるだろう。
すがるような気持ちで、白い液体で満たされた小さな鍋を見つめる。
鍋で温まったミルクは次第に薄く膜を貼り始める。
「そろそろ、いいかな・・・」
僕の好みに合わせて味付けすべく、砂糖を探した。
しかし、それはどこにも 無かった。
キッチンの引き出し、戸棚、冷蔵庫も、全ての場所をひっくり返したが、砂糖は無い。
土方くんは自炊をしないから、調味料は塩と醤油とマヨネーズしかない。
でも、いつも、僕のホットミルクを甘くしてくれているじゃないか?
僕はしつこく甘味料を探したが、やはり無かった。それどころか、ゴミ箱の中にも、空の容器すらも無い。
(・・・それじゃあ、あの甘い味は・・・?)
ぐつぐつと煮える小鍋の牛乳を見つめながら、呆然と立ちつくした。
いつものように温まったミルクのいい香りが、部屋中に立ち込めている。
僕はそれをマグカップに移し、そっと口をつける。
いつものホットミルクと、味が全然違う。
甘くもなく、美味しくもない。
一体、いつものそれと何が違うのだろう。
このホットミルクでは眠くなったりしない。
どうしてなんだろう?
彼の作ってくれるホットミルクなら、カップの半分くらいを飲んだら、すうっと意識が飛んでしまうのに。
「土方くん・・・いつも僕のミルクに・・・何を入れていたの?」
せっかく作ったのに美味しくないホットミルクを、一気に飲み干す。
落ち着くどころか、悲しくて悲しくて、唇を噛んで 僕は泣いた。
*** ***
しとしと降る雨が止むことは無かった。梅雨だから仕方がない。
窓を開けたこの部屋は、雨雲の合間から差し込む薄い光のおかげで、うっすらと明るい。
土方くんは一晩家を空けたけれど、ちゃんと翌日帰ってきた。
僕が起きて待っていたことに驚いた彼は、「いつ起きたんだ?」と苦い顔をした。
土方くんの『計算』では、僕はまだ眠っているはずだったのだろう。
彼の言動に違和感を覚えたが、そんな事よりも元気な姿で帰ってきたことが嬉しくて、思い切り飛びついた。
「土方くん、おかえりなさい。無事で良かった・・・!」
「色々と面倒な事があったが、全部片付けてきた。これからもお前はここにいればいい」
土方くんに抱きついた僕は、その言葉にただ頷くだけだ。
何を言っているのか事情が理解できないが深くは考えたりしない。気持ちが迷ったりしてしまうから。
彼のいない夜はあまりにも孤独で恐ろしかった。
僕は彼を失ったら、本当に独りぼっちになってしまう。それだけは、嫌なんだ。
「僕が自分で作ったホットミルクは美味しくなかったよ・・・」
「そうか・・・今夜は俺が作ってやる」
久しぶりにまっすぐに見つめた土方くんは、相変わらず凛々しくて整った顔をしている。
艶やかで流れるような黒い髪、意志の強そうな眉、青く鋭い瞳、締まった口元。
僕は彼の顔が大好きで、いつも見惚れてしまう。
「キスして、土方くん」
僕は彼の首に腕を回しキスをねだると、土方くんはそれに応えて僕の唇を啄ばんでくれた。
(良かった、いつもの優しい土方くんだ)
僕は歓喜と幸福で身体中が蕩けてしまいそうな、極上の甘さを味わう。
つい口元が緩み、頬が染まる。今まで冷え切っていた体温が急に上がって、肌がしっとりと汗ばむ。
寂しい思いをしていた分を取り返すように、僕は思い切り彼に甘えた。
外出しっぱなしだった土方くんは疲れていたのか、僕より先に眠ってしまった。
土方くんのホットミルクを作ってもらえなかった僕は、全く寝付けないまま雨の夜を明かした。
一人で過ごす孤独な夜と違い、隣で眠る土方くんの寝顔を見ながら時間を潰すのは楽しくて、つい微笑んでしまう。
何よりも彼のぬくもりがあるだけで、僕は何も恐くない。
翌朝、僕はベッドに潜って、わざと眠っているフリをしていた。
僕がいつものように深い眠りについていると思った土方くんは、静かにベッドから這い出す。
顔を洗ったり着替えたりと外出の準備をして、通学用の薄いバッグに僕の読んでいた本を入れる。
図書館の本を持ち出したという事は、今日は大学に行く日なのかもしれない。
土方くんは僕に気を使い、音を立てないようにそっと玄関の古い扉を開け、小雨の中へと出て行った。
気配を殺すように静かにしていた僕は、急いで服を着替え彼を追いかけて、外へ飛び出した。
玄関を出ると想像以上に空気が冷たく、寒かった。僕は身震いして肩をすくめる。
足音に気をつけながらアパートの階段を降り、傘で顔を隠しながら、密かに土方くんを尾行する。
『 銀魂大学 』・・・
一度土方くんの話に出てきた、その単語が気になって仕方がない。
記憶のない僕にとって、唯一ひっかかりのある言葉だ。
もしかしたら記憶が蘇るきっかけになるかもしれない、僕は淡い期待を抱いていた。
一度で構わない、彼の通う大学に行ってみたかった。
だが土方くんは絶対に僕を外出させてくれない。彼に連れて行ってもらことは叶わないだろう。
これからもきっと、僕はあの狭い巣に閉じ込められるんだ。でも、それでもいいと思う。
土方くんがそれを望むなら、僕はそれを受け入れたいんだ。
(僕は土方くん無しには生きていけないし・・・何より、ずっと彼の側にいたいから)
彼に無理やり抑えられているわけではなく、僕は自分の意志であの部屋に居たいんだ。
だからこそ、あの狭い部屋から出られなくなる前に、一度だけ、小さな冒険をしてみたいと思い立った。
二日前までは、外に出たいなんて思わなかった。外に出たら、土方くんを怒らせてしまうから。
彼に嫌われてしまったら僕は立ち直れない。
記憶だって、取り戻したいとは思わなかった。
もし僕が全てを思い出すことで、彼と別れるような事態になってしまったら・・・
それを思うと、記憶なんかいらない。外の世界にだって出たくない。
・・・それでいいわけがない。
自分の気持ちの矛盾に情緒不安定になりながら、現状から逃げてばかりいた僕。
しかし胸の奥に封印されていた、何かに駆り立てられるような気持ちが、今はある。
小さな窓から顔を出した時に、雨と紫陽花が僕のくすんだ視界をきれいに洗い流してくれた。
美しい紫陽花が、僕に勇気を与えてくれた気がする。停滞している僕の時間を動かす勇気を。
外の世界は雨なのにこんなに明るい。
冷たい空気は、僕の気持ちを落ち着かせてくれる。
ずっと濁っていた僕の瞳の赤が、澄んだ色に変わっていく。
僕の記憶のまわりに張り巡らされた膜も、今日の雨が洗い流してくれそうな予感がしていた。
*** ***
土方くんの通う銀魂大学はアパートからさほど遠くなく、10分弱の徒歩で辿り着いた。
連日の雨のせいで朝の空は薄暗く気候は震えるほど肌寒い。
僕たちは人通りの少ない静かな住宅街を通り抜けて歩いた。
あまりにも人がいないので、物陰に隠れながら尾行をする事に大変な思いをした。
まさか僕が後を着けているとは思わない土方くんは一度も後ろを振り返らず、下手な尾行のわりには見つからずに済んだ。
大学の正門前は植木の緑色で埋め尽くされ、ここでも紫陽花の花が鮮やかに咲いていた。
土方くんは慣れた足つきで歩き、正門を潜って広い校舎の一角へと消えてしまった。
今まで室内に篭っていた僕は体力が落ち、歩くだけでも息が上がってしまう。
必死に追いかけたが、ふらついて目を離した隙に土方くんを見失っていた。
何とか正門までは追いかけて来たものの、すっかり疲れ果て、そこで呆然と立ち尽くした。
まだ新しく近代的なデザインの、広い校舎を持つ銀魂大学。
結局は銀魂大学には見覚えがなかったようで、この景色を見ても何も思い出せない。
暗い空と混じる灰色をした巨大な校舎郡を、成す術もなく見上げる。
意気揚々と出てきたのに記憶は戻らないし、土方くんの事も見失ってしまった。
僕は落胆し深いため息をついて、肩を落とす。
足元のアスファルトは雨で黒光りして、水たまりには僕の姿が映し出されている。
水たまりの向こう側の僕も、同じく疲れきった顔をしていた。
正門前に立ち尽くす僕の横を、何人もの学生たちが足早に通り過ぎていく。
誰も僕のことを知らない。
(僕はこの世の中でひとりぼっちなんだ)
寂しさが大きな波のように僕を襲う。こんなにたくさんの人がいるのに、余計大きな孤独を感じてしまう。
今までは僕のことだけを見つめてくれる土方くんが、いつだってすぐ側にいた。
彼がいないだけで、僕は孤独だった事実を思い知らされる。
(僕を知っている人に会いたい)
僕の知り合いは土方くんしかいない。はぐれてしまった彼に、早く会いたい。
いつでも僕は、ほんの少しの間も土方くんと離れると、途端に寂しくて泣きたくなってしまうんだ。
虚しさと寂しさで身体の芯が冷え切ってしまった僕は、ゆっくりと踵を返して校舎に背を向ける。
彼に黙って外出した事が知られたら、また激怒されるだろう。
土方くんは僕が外に出ることをとても嫌がるから。
(アパートへ戻って、大人しく彼の帰りを待とう・・・)
僕はゆっくりと、来た道を戻り始めた。
帰りの足取りは何倍も重く、辛いものに感じられる。
懐かしい気がした「大学」には僕の望むものは何も無かった。
ここに来たことは、全くの無駄だった。
再び深くため息をついた時、どこからか僕を呼ぶ声が聞こえた。
「銀時!」
僕は足を止める。男性の声だが、土方くんではないようだ。
「おい、銀時ではないか?」
左右をきょろきょろと見渡しても、僕を呼ぶ人は誰もいない。
僕は後ろを振り返る。
つい先ほど僕が立っていた正門の内側、僕と同じく傘を差した人がこちらをじっと見ていた。
僕を呼んでいたのはこの人だろうか。
(銀時という名を知っているという事は、もしかして僕の知り合い・・・?)
「やっぱり銀時だ。久しぶりだな」
それは男性の声だが、さらさらの黒髪が背中まであり幼げで綺麗な顔をした、まるで女性のような外見をした人だった。
銀時の名を知るその人に僕は驚き、彼の元へ小走りで近寄る。
「あのっ!銀時って僕のことですか?」
「当たり前だ。何を言っているんだ、お前は」
銀時という僕の名前は暫定的なもので、記憶の無い僕にはそれが本名なのか知る由もない。
土方くん以外の人が僕を銀時と呼んだ。
それは僕の本当の名前だという証拠になるだろう。
僕は嬉しくて顔が熱く火照り、緊張で心臓が早鐘を打ちはじめるのを感じた。
「僕の事をご存知なんですね!・・・ところで、あなたは誰ですか?」
「誰ではない、桂だ」
「桂さん、あなたに会えてよかったです!僕のことを教えて下さい」
「・・・何だその新しいボケは・・・意味が分からん。俺にどうツッコめと?」
怪訝そうに冷たい目で僕を見る桂さんは、僕のことを裏拳で叩く仕草をした。
記憶喪失だと事情を説明しても、桂さんはなかなか信じてくれなかった。
暇なら学食にでも行くか、そう誘われた僕は、桂さんの後を付いて行った。
「銀時、貴様前期をまるまるサボって、一体何をしている?」
「だから僕は事故で記憶喪失だったんです!あなたの事も覚えていません・・・」
「馬鹿を言うな。しっかりお前の休学届けが出ているぞ。記憶がないわけないだろ、確信犯め」
「休学届け・・・?」
桂さんは僕の話を嘘か冗談だと割り切っていて、真剣に聞いてくれない。
僕は桂さんの言葉のひとつひとつに違和感を覚えながらも、貴重な情報を必死に頭の中に蓄積していく。
(休学ということは僕はこの大学の学生で、この桂さんとは友達なんだろうか)
(そして僕は休学届けを出している・・・それは一体どうして、誰が?僕が?)
お昼にはほど遠い時間のため学食は殆どが空席で、講義の空き時間を潰す学生が数名いるだけだった。
晴れていれば眺めの良さそうな窓際の席に桂さんが座り、僕はその向かいに腰掛けた。
「さて、では落ち着いてお前の話を聞こうではないか。突然音信不通になった挙句、休学までしている理由も気になる」
「ええと、多分4月ごろに事故に遭ったんですが、そのせいかと・・・音信不通だったんですね、僕は」
「お前が学校に来ないので教務課に確認してみたら休学届けが出ていた。携帯電話も解約されているので連絡が取れん」
いぶかしげな顔をする桂さんは、当然僕が自ら休学届けを出したり携帯電話を解約したと思っている。
僕らは話のつじつまが合わずに、困った顔をしながら会話を続けた。
「あの、基本的なことを教えて下さい。僕はここの学生なんですか?」
「何だ、お前、本当におかしいようだな」
桂さんは呆れたように大きなため息をついて、僕の顔を半眼で見る。
「本当に記憶がないんです。だからもっと僕の事を教えて下さい!」
形振り構わず、必死に桂さんに懇願する。
桂さんは眉を潜めて怪訝そうな顔をしているが、僕の真剣さが伝わったらしく「分かった」と頷いてくれた。