*****中学生日記*****
体育倉庫に足を踏み入れた土方は、その場で全身を強張らせたままピタリと固まっていた。
異常な事態が目の前で繰り広げられている。
その様子を見ることは出来なかったが、動揺と緊張から思考までもがフリーズしている。
殆ど日光の入らない暗く黴臭いこの体育倉庫内には、自分の他には銀時しかいない筈だ。
現に倉庫の奥から、銀時の声が聞こえているのだから。
しかしその声は、吐息と共に洩れる甘い音に過ぎなかった。
「あ、だめ・・・っ!」
声しか聞こえない。
しかし、声だけでも十分にその状況を思い描くことが出来てしまう。
それは体育倉庫にボールを取りに行ったきり戻らない銀時を心配した土方が、この倉庫に足を踏み入れた瞬間のことだ。
倉庫の扉は、40センチほど開いたままだった。土方は何の抵抗もなく、その隙間から倉庫へ入った。
当然この中に銀時がいるのだろう。
倉庫内の暗さに目が慣れず、中の様子はまだ見えない。
その時、真昼間の中学校に有り得ない異常な甘い溜息を、土方の鋭い聴覚が敏感に拾った。
「ん、気持ちい・・・」
今まさに暗がりに向かって声をかけようとしていた土方の動作がぎくりと止まる。
土方は神経を聴覚に集中させ、謎の声を解明しようとした。
聞いてはいけないような、普段は耳にしない類の謎の吐息。
しかもその声に聞き覚えがあった。まさか、考えたくもないその人物。
その声は銀時のそれに酷似している。
「あ・・・ん、手、止まんね・・・ぇ」
ぎりぎりまで耐えるように止めた呼吸を、小さく吐き出す。
その際に母音だけの声が、甘い音色で鼻から洩れる。
間違いなく声の主は銀時であると、土方は確信した。
静かな倉庫内に響く呼吸音と、布や肌の擦れる物音が土方の脳裏にいけない妄想をよぎらせた。
(何してやがんだ、あいつ!何ってナニか!?こんなとこで!?)
焦りながら瞳孔の全開した瞳を左右に走らせ、銀時の姿を探す。
暗闇にも慣れ、雑然とした倉庫内の様子が見えてくる。
銀時の切羽詰った熱い吐息が聞こえる方向に、注意深く目を凝らす。
跳び箱の後ろあたり、ボールを入れた籠がある場所に、銀時の髪が見えた。
横長の跳び箱の裏に隠れるようにして、屈んだ姿勢で右手を激しく動かしている。
跳び箱の向こうに見え隠れする銀髪は、規則的な動きで揺れる。
どう見ても不自然だ。普段の銀時と違い、目の眩むような艶かしさが漂う。
その異常な様子に土方は動揺し、かつ不謹慎な熱を身体中に感じていた。
「ん・・・こんなことして・・・だめだって、もう・・・これ以上は・・・」
銀時が切なく途切れる声で何かを制止している。
他に誰もいない狭い空間で、考えられるものといえばそれは銀時自身だろう。
弱い意志では止められない自らの欲望を、それでも必死に自制しようとしているのだ。
ただしその自制心も、襲い掛かる快感の波に飲み込まれてしまう。
この無駄な抵抗こそが、禁断の快感を何倍にも増幅させているのかもしれない。
「あー・・・」
抵抗を諦めたかのように、肌を擦る音が一層激しくなる。
自らの欲望にまかせて、あとはただ快楽に溺れるだけ。
このまま銀時の痴態を、まるで覗き見るような真似をしていていいのだろうか。
いつ声をかけていいのか、それともこのまま立ち去るべきか。
土方は混乱のあまり整理できない思考をぐるぐると堂堂巡りさせるばかりだ。
身体は固まったまま、この倉庫に入った瞬間から指先一つ動かせずにいた。
一方土方の心臓だけは、緊張から激しく脈打ってうるさいほどだ。
その瞬間、銀時が小さく悲鳴をあげた。
「あ、痛っ!」
激しかった肌の摩擦音と、揺れ続けた銀髪が急に動きを止める。
と同時に、土方も異常事態にぎくりと身体を強張らせた。
「しまったぁ・・・血が出ちまった。爪、立てちゃったから・・・」
銀時が痛みに落胆した様子で溜息をついた。
出血と聞いて土方も焦っていた。が、しかし声はかけられなかった。
一体、何がどうなったというのか。土方は銀時の方向を見据えたままだ。
「だからダメだってのに。もー、何で我慢できないんだよ、俺のばかっ!」
誰に言うわけでもなく、ぼそぼそと不満と後悔を口にしながら、銀時が気だるげな動作で立ち上がった。
ようやく人の気配に気づいたのか、振り返った銀時が目を丸くして驚く。
倉庫の入り口に立ち尽くしている土方と視線が重なった。
「うわっ!土方いたの?ビックリしたー何してんだよ!」
「び、ビックリしたのはこっちだ!テメーこそ何してやがった!」
土方のフリーズがようやく解け、顔を真っ赤にして銀時に詰め寄る。
「何って、ボール取りにきただけだろ?」
「違う、今そこでナニしてたんだ!?・・・血が、出たとか何とか・・・!」
「ああ、血ね」
銀時がぐりんと首を下に向けるので、土方がどぎまぎとしながら銀時の視線の先を追う。
「やりすぎて血が出ちゃったんだー」
銀時が自らの左膝を指差すと、確かに膝の周りが血まみれだった。
その血は微量で、すでに乾きかけている。
「ひ、ひざ?」
「シマシマのでっかい蚊に刺された。もー痒くてたまんねーの!」
土方に見え易いように膝を持ち上げて、蚊に刺された部分を指差す。
膝の内側、肉の柔らかな部分が赤く爛れている。
数箇所がぷっくりと腫れていたが、掻き毟ったせいで皮膚が破れ、出血していた。
銀時の指により血がその周囲へと薄く塗り広げられ痛々しい。
「後で痛くなるの分かってんだけど、気持ち良くてつい掻いちゃうよなァ。あーいてぇ・・・」
後悔しつつもすっきりとした表情で、銀時は目的のボールを片手に体育倉庫から出て行く。
土方は呆れ返っていた。
銀時の愚行も、自分の妄想も、全てに落胆して深い溜息をつく。
「はあ・・・」
「どしたの、土方」
「いや・・・」
普段は色気とは縁遠い銀時が、無意識に色っぽく喘ぐのだと思うと、土方はぞっとした。
まさか、こんな銀時の声を聞いてしまうなんて。
まさか、劣情を抱いてしまうなんて。
いけない欲望に目覚めてしまいそうだ。
再び銀時が蚊に刺されて、甘い声で掻き毟り出したら。
今度こそ間違いを起こしてしまいかねない。これは危険だ。
土方はこれからは痒み止めの薬を持ち歩こうと、心に決めた。
それは銀時のためであり、何より自分のためでもある。
終わり。
20090821
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